「童
蒙」とは幼少で、道理に暗い者という意味である
。
慶應義塾の創設者、福沢諭吉には有名な「学問のすすめ」の外にも数多くの著名な著書があるが、
そのなかの教育に関する論説の中で小学生にも読めて子供達の「徳育」に関する本として「童蒙をしへ草」というのがある。
この本は明治5年に福沢諭吉が英書を翻訳したもので、明治時代の小学校の「修身」の時間に多く読まれていたという記録が残っている。
その「童蒙をしへ草」はイソップ物語や童話をとおして「命の尊さ」「生きる意味」「独立心の育て方」等、子供達の心の情操を育む内容で、
その中の極一部を現代風に訳すと、「ひびのをしへ」として「おさだめ」(七つの大切なこと)。
(1)うそをつかない、(2)ものを拾わない、(3)父母に聞かないで物をもらわない、(4)ごうじょう(強情)をはらない、
(5)兄弟げんかをしない、(6)人のうわさをしない、(7)人のものをうらやまない、等というものである。
そして、いよいよ今年の4月から小学校でも大東亜戦争後、長らく途絶えていた道徳教育(修身)が始まる。
そこで今回は私事で恐縮ですが慶應義塾卒業の三代目として『初代は明治11年生れの父の養父、二代目は大正12年卒業の父、
そして昭和27年卒業の小生、長女の主人も慶應、平成4年生れのその長男も慶應の卒業で、それが五代目』そして、
その「童蒙をしへ草」から福沢諭吉の子供達の道徳論について書こうと思う。
福沢諭吉(以下諭吉とする)が明治7年に幼い子供達を集めて自らの門下生の一人、和田義郎に幼い子供達の教育を施すべく「和田塾」
(現在の慶應義塾の幼稚舎の前身)を創立した理由の一つとして考えられるのは、明治4年、38歳だった諭告は我が子、
一太郎と捨次郎の為に半紙四つ折りの帳面を2冊用意して、その躾を中心とした「ひびのをしへ」を毎日書きっづけていたことをみても、
諭告がいかに幼い子供達の道徳教育が大切だと思っていたかを伺い知ることが出来る。
後に「文部卿は三田にあり」と言われた諭吉は常に「一家は少年の学校なり」「真に人の賢不肖は父母家庭の教育次第なり」と言っていた如く、
和田塾を設立し常に幼児期における家庭教育の重要性を説いている。
諭吉は大分中津藩の下級武士の子として生まれ、彼が3歳の時に父の百助は死去、然し貧困生活のなか、
賢明で愛情深い母親のもと厳格だった父が残した福沢家の家訓「誠意誠心
屋漏に愧じず」
(人の見ていないところでも自分の身を戒めつつ恥じるところがないように心掛けよ)を実践し、今でいう片親ではあったが、
亡父の威風を追い求めて諭吉は立派な青年に育っていった。(現在は片親の生徒が多いときく)
又、子供の教育に関して「福翁自伝」には「もともと子供の性質は自分の父母を善い人と思い、我が家を楽しい所と思い込むもので、
その子供心を利用して益々とれを養い近所に我が家ほど尊いものは無い、我が家の人ほど品格の正しいものは無い。
我が家こそ実に美しく善い家庭であると思わせるとことが大事だ」と書いている。
然し現代の子供達を見ていると、両親とも忙しくて精神的にも余裕がなく、一応塾やお稽古事をさせたりはしているが、
上手に子供と向き合えないでいるように思えてならない。
そして、たまたま子供と向き合う機会があっても、子供は自分がこれまでどんなに寂しかったかを一気に話し出すものだから、
両親から見ると反抗しているように思えて、親は「何だその態度は」等と叱ることになり、結果として子供はまた拒絶されたと思って心を閉ざしてしまう。
これは現実には親は一応子供を愛してはいるのにその子供の将来を真剣に考えていない証拠で子供に対する真の愛情不足の結果である。
道徳教育の重要性を家庭教育において効果的に実行するには、一般に乾いた道徳の教育だけに依頼せず、
家庭団梁の楽しみを昧あわせて子供心を感化薫陶することが大事なのだ。
家族団欒のうちに父母の人格で感化することが必要で子供を野放しにして道徳心や規範意識が自然と芽生えるということはない。
従って諭吉も子供達に「ひびのをしへ」を書き与え、教えるべき事をしっかりと教えていたのだ。
諭吉は「子供を捨て置くことは手入れをしない植木の如く、だからといって松を梅に変えることは出来ない」
とも書き道徳教育のむずかしさを強調しているが、その子に備わっている特性や才能の発育を助け、
より良き方向に導いていくことを常に心掛けるべきだと思う。
「三
つ子の魂百まで」、「雀百まで踊り忘れず」の喩の如く、道徳教育は幼児の頃から家庭内で自然と身に付いていくものなのだ。
子供の時から見習い聞き覚えて習慣となったことは、深く影響して容易に矯正する事は出来ない。
従って幼児の時から家庭で良い習慣を身につけさせて、その習慣の奴隷にすることだ。
そこで初めて諭告の言う「独立自尊」の人間に育つのだと私は思う。
道徳については去年の4・5月号にも書いたが、去年の小学校での「いじめ」は公表されているだけで23万8千件。
文科省が学校での「いじめ」の増加に歯止めをかけるべく復活させる道徳教育、世の親たちは、
これからは学校で自分達の子供の道徳教育をしてくれるから安心だと思ったら、大間違い。
今迄道徳教育を全く受けたことのない教員が一人で問題を抱え込まぬよう校内での情報共有の強化やスクールカウンセラーの外に
小学校での体育等は保健体育の範囲内に止めて家庭との連携を特に密にする体制作りは欠かせない。
それと同時に曾て新渡戸稲造の世界的名著「武士道」の序文に「十年程前、私(新渡戸氏)がベルギーの著名な法学者ド・ラブレー氏から
日本の学校では宗教教育がないと言われますが、それでは貴方がたはどのようにして道徳教育を授けるのですか」
と質問され愕然としたと以前も書いたが、確固たる宗教倫理感を待った教師を育てる必要がある。
従って、道徳教育の理論的な研究の底上げの為に道徳の授業を専門とする教員の養成が不可欠である。
その為には大学に「道徳」の特別講座を設けて、文科省のもとで「道徳の専門免許制度」を設けるべきだ。
だからといって、その免許を取得した教師だけに総てを任して後はまったく無関心であっては絶対にならない。
然し、仮に小学校で道徳教育の免許をもった教師が道徳の何たるかを教え、福沢諭吉の「童蒙をしへ草」を子供達に浸透(?)させたとしても
「いじめ」の根絶は非常にむずかしいと思う。
何故ならば、現在の社会が人工頭脳等何だのと、あまりにも複雑になりすぎて、何となく現在の「いじめ」より、
より複雑で陰湿な「いじめ」になるような気がするからだ。
だからこそ、現代に即した道徳教育は絶対に欠かす事は出来ないと同時に現代の親達への「道徳講座」を何としても設けて
親達に「道徳教育」の重要性を認識させるべきだと私は思う。
以上
(岩崎弘氏の「福沢諭吉的教育論」参考)