新年おめでとうございます。
平成という時代もあと僅か、どうか平和で発展的な良い年号にしてほしいと思うと同時に、
今上天皇は「退位」ではなく「譲位」と表現すべきだと私は思っている。
閑話休題。
月並みな言葉だが、一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり、という。
これは何事も初めが肝心だから、しっかりとした計画を立てて実行しようというもので「一年の計は春にあり」とか
「一生の計は少壮の時にあり」というのもある。
いずれにしても新しい年を迎えられて皆様もきっと今年の目標に向かって歩き出されていることと思います。
私も自分の決めた目標に向かって、力一杯努力してみて、それで自分が世間から生かされているのだと思ったら、
あまり先の事は考えず、慌てず着実に日々自分の足元をしっかりと見詰めつつ一歩一歩、歩いて行こうと思っている。
そして今年も新しい手帳の一頁目に今年の目標を朱記して嫌でも毎日それを見て気合を入れるのが私の十数年来の習慣になっている。
“面白き事のなき世を面白く すみなすものは心なりけり”(高杉晋作)。
“道は近きにあり 然るに人はこれを遠くに求む”。
人生を幸福に生きる為には日常の瑣事を愛さねばならない、
と芥川龍之介は言う。
世の中はいつも苦楽は損益計算書のように貸方・借方の辻棲が合っているのだが出来ることなら幸せという利益を計上したいと思うのが人情だ。
そして幸福を楽しむ道は芥川の言うように存外我々の身近なところにあるような気がする。
貧乏人には貧乏なりの苦もあれば楽しみもある。
金持ちにも、それ相応の苦しみや悩みがあるらしい。
そこで、さしあたり自分の身近にあるものだけを拾い上げて喜ぶのがいい、自分の手元にないものばかりを数え上げて不平不満を抱いたり、
他人を羨む人生では幸福には出会えない。「すみなすものは心なりけり」だ。
今年の私の第一の目標は以前にも書いたがやはり
「諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教」。
孔子の言う「己の欲せざる所 人に施すことなかれ」とした。
悪いと思った事はせず、善いと思った事を実行したいと心から思う。
近年、子供達の特に幼い子供達の陰湿な「いじめ」が増加しつつあるのを問題視して今年の新学期から先ず小学校で「道徳」の授業が始まるが、
道徳は口で教えてわかるものではない。
渋滞栄一は「知育・徳育・体育」のうちで人間として最も大切なものは「徳育」であると常々言っていた。
今年から2020年のオリンピックを控えて、マスコミ等では何となく体育が幅を利かせそうな気がするが、メディアも体育の本来の意味を良く理解して、
将来有為な若者達を安っぽいスポーツ論でミスリードしてもらいたくない。元来学校で教えるのは体育ではなく「保健体育」だったのだ。
オリンピックとスポーツについては本誌で15年前から20数回にわたって書いているが、勝利至上主義のメダル目当ての競技スポーツと
真のスポーツを絶対に混同してはならない。
渋滞栄一の言う如く、徳育を知育・体育等と同格に扱うべきではないのだ。
話しが若干本題から逸れたが、
能楽を集大成させた世阿弥の「花鏡」の一節に「能楽の専門家として上達大悟する道の秘仏として、当流に万能一徳の一句あり、
初心忘るべからず。この句三条の口伝あり、是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。
この三句よくよく口伝すべし。」とある、この場合の初心とは学問、芸能を学び始めた当時の気持ちを忘れてはならないということだ。
新しい年を迎えるにあたり、まず「花鏡」の中の(1)是非の初心、結果として成功したことも又失敗に終わり間違いであったことも、
(2)時々の初心、いついかなる状態にあっても、そして(3)老後の初心、老人になっても心の若さを忘れてはならない、と言うのだ。
この最後の老後の初心とは老人には年をとらなければ気付かない人生の諸々の問題が生じてくる、それを老いを感じはしめた頃の初心に返って、
一つ一つ処理していくところに101歳で亡くなった臨済宗の松原泰道老師の「生涯現役」と言う言葉が生きてくる様に思う。
折角これまで生きてきて、残り少ない人生を精一杯悔いなく生きなければ、今まで生きてきた甲斐がないではないか。
今迄も「独楽の人生」等と一人で楽しんできたせに、
まだこれからも楽しもうというのか、と家族の者達は口を揃えて抗議するが、今迄は今迄、これからの人生が大事なのだ。
人間年をとらないと、わからない人生の楽しみが必ずあるはずだ。“終わり良ければすべて良し”。
兎に角、人間は若さをプラスに老いをマイナスと位置付けるきらいがある。
もしも老いをマイナス価値と見るならば、人間の生きる価値は毎年毎年、いや毎日毎日生きる価値が減少することになる。
人間の価値は年齢とは無関係のはずだ。
年相応の目標をもって懸命にそれを達成しようと努力する事。それが例え失敗しても自分が最善を尽くしたと思えば悔いは残らない。
今年私は米寿となる。
今年の年賀状に私は「振り返れない 道が真っすぐ」と山頭火の詩を書いた。
これからの私の目標とする道は、まっすぐ、前を向いて前進あるのみ。
と又しても偉そうなことを書いたが、まず「正月」とくれば無くてはならぬものは「お酒」だ。正月に酒はつきもの。
酒は栄えのつづまったもの、これを飲めば笑み栄え楽しくなるからだ、古くから日本では神事や慶事に酒を用いる事が多い。
「酒は飲め飲め茶釜で沸かせ おみき上がらぬ神は無い」と言うではないか。
NHKの「子供電話相談室」の無着成恭氏は私に「酒と女は二号(合)まで」といったが、二号(私の場合は馬)は別として
御神酒の「お」は読んで字の如く御で褒め
敬う言葉であり
「き」は生きるのきで酒を飲むと勢いが出るからだと神様が言っているから御神酒なのだ。
酒を飲むと笑いが増える、楽しくなる、元気が出る、従って栄えるといった効能がある。
何といっても酒は百薬の長なのだが、「百薬を飲みすぎ万病で入院し」と恥ずかしながら私は今迄に酒を飲みすぎて身体を壊し
何度か禁酒を宣言したことがあるが病気が回復すると、懲りもせずに又すぐ飲みはじめた。
アルコールが入らないと総ての食事が味気無く、アルコールと一緒に食べるとより旨くなるからだ。
旧日本陸軍の将軍で二人の私の馬の師匠の遊佐幸平中将と浅岡精一少将は常々「酒の弱い奴に馬術の上手になった奴はおらぬ」と言っていた。
私も馬術が上達したいばっかりに酒の飲み方まで両先生に指導してもらったものだ。
そこで私の今年の二番目の決意。二号さん(全部で17頭)の方は体力の限界を感じて卒業とし、今年からの晩酌を二合から一合と決めた。
これなら当分は続くだろうと思う。
その事を年4〜5回デートする70数年来の私のガールフレンド(当年94歳で曾てのオリンピック選手で、「まだ生きてたかい」とよく電話がある、
私とカラオケに行きたいからだ)に会ったら、「貴方は莫迦だね、偉くもないのに、いつも偉そうな事ばかり書いて、お前さんが死んだら、
お通夜の晩にお前さんのこれまでの悪事を全部バラして皆で笑ってやるから」と自分の方が私より長生きするつもりでいる。
尤も或る生命保険会社の統計によると、亭主は死ぬとその後女房は22年生きると言われており、彼女は敗戦後間もなく最初の御主人を亡くし、
再婚した御主人も何十年か前に亡くなっている、従って、それを合算すると少なくとも後4〜50年は生きる事になる。
若干語弊があるかも知れないがスポーツの世界にしても最近の女性は相対的に強いとつくづく思う。
斯く言う私も「女房に腹が立つけど歯が立たず」状態だが、女房に虐げられながらも女房に内証で自分だけの楽しみを見つけつつある。
そしてこれが長生きの秘訣だと窃かに思っている。
今年が皆様にとりまして良い年でありますように心から願っております。
以上