”こ
の年も またいたずらに暮らして来て
春に逢はんと 思わざりけり”
幕末から明治の歌人、八田知紀はこう詠んでいる。
新渡戸稲造の名著「修身」に、およそ人が年をとるというのは、何を標準として定めたのか、暦にも太陽暦、太陰暦などいろいろあって、
年にも長短がある、こんなものによって、人の老若を定めるのは単に人を肉体とみなしていることで、
何も人の老若を定めるのに必ずしも太陽の回転のみをもって数えるには及ぶまい、今年やろうと思った事と実行とが相伴って、
より以上の向上発展が実現されたならば、それこそ真の年をとったのである。
暦をくりかえしたからといって、必ずしも老年というのではない。
年をとるというのは、いたずらに馬齢を加えるのと違い星霜を経れば経るほど精神が若返り、
それこそ老いてますます盛んになり老衰はしないで成熟するということだ。希望に満ちた者はいつまでも「青年」である、
青年とは過去になした仕事よりも将来なすべき仕事を数え、その数が多い、即ち希望と抱負に富んでいる者をいうのである、と書かれていて、
その内容はサムエル・ウルマンの「青年賦」と一脈通ずるものがある。
私事になるが、私は来年88歳になる、私に残された時間はそう長くはない。
然し、縁起を担ぐようだが、私の今年の運勢は「準備宮」「何事にも前向きに取り組み真面目に努力すること、
運気は鈍いが確実に開運に向かっている」とあった。
そこで今年の始めに「今年を米寿の準備年」と考え、今年やるべき事を来年の米寿に備えていろいろと列挙してみた。
そして、「よし、今年は米寿の準備年としてこれだけのことは実行しよう」と決心したが、今からちょうど25年前、
国際馬術競技大会の試合の最中、馬の上で心臓の弁の腱索断裂によってゴワテックスという化学繊維の糸で吊っている
私の心臓の弁がいつまで持つかが問題だ。気のせいか、どうも最近息切れがひどく、何事にも根気が続かないので、
今年の第一目標を私の健康の再改造とした。
そこで、まず四半世紀前、私の心臓手術をして頂いた病院で心臓の精密検査をしたところ、若干の血液の漏れはあるが血液の質は非常に良く、
まだ暫くは持つとのこと。
次に心臓以外はどうかと人間ドック検査をしたところ立派な肺炎で、何とかいう数値が異常に高く即刻緊急入院となった。
そして検査の結果、肺以外のところも数力所老朽化が進んでいるというので、
それも修理してもらって無事退院することが出来て何とか次の車検まで持ちそうだと一安心。
結局その入院中の2週間は有難いことに検査と点滴注射以外は、まったく自由なので、その間、
本を読んだり自分なりに色々と将来のことを考える時間がたっぷり出来た。
その結果気が付いたことは、私の今年の第一目標の健康は実は目的ではなく幸せに生きる為の一つの道具にすぎず、
又私の半月の入院は私にとって大変良い「保養」になったが、その保養も又何か新しい目標を探すための時間であり、
健康には身体の健康の外に頭の健康や精神の健康も大事で、頭と精神にも栄養を与える必要があるということに気が付いた。
そこで退院後、自分なりに健康以外に立てた目標の達成にとりかかり、先ず小規模ながら30年以上続いている会社を有望な後継者に譲り、
新社長のもとで会社の更なる発展の目途をつけることも出来、その外の目標についても充分とまでいかないまでも、
一応「米寿の準備年」としては、何とか後悔せずに年が越せそうな気がしてきた。
今から二十数年前、我が家の納屋の古い箪笥の裏から古色蒼然たる風呂敷包みが出てきた。
その中には私を生んで僅か半年で亡くなった母の手紙や古い写真に混じって私の名前の由来というか姓名判断士の書いた紙切れが入っていた。
それによると私は精神的に修養を積んで刻苦勉励すれば一人前の人間になれる名前だと書かれていた。何の事はない、
結局私は克己心をもって修養を積まないと一人前の人間にはなれないということで、
そのような事を60歳半ばで知っても今更手後れというものだ。
一遍上人は「心おば 心の仇と心得て、心のなきを 心とは知れ」と詠んだ。
「克己」即ち己に克つには先ず己の心を知る必要があり、その己の心の悪いところに克たねばならない、
その悪い心とは即ち己の情欲だということだ。
米寿を迎えようという私としては、来年の目標の一つとして、そろそろ己の悪い心、即ち情欲(むさぽり執着する心)に克ってもいい年齢、
言い換えれば悟りを聞くべく努力しなければならない年齢なのだ。
今年は除夜の鐘を聞きながら、無数の煩悩(百八煩悩)を一つひとつ懺悔しつつ、
暗闇め心を除いて明るく清らかな新年を迎えたいとつくづく思う。
「それみたか 常が大事じゃ大晦日」一刻一刻、念々に懺悔、懺悔の日ぐらしが必要なのだ、
いわば「除夜」とは私の日々の生活の中にあるのだ。
希有の碩学者・安岡正篤師は「常に自らに反
らねばならない」と言う、自らに反るとは、自分の生きる姿勢はどうか、人間関係はどうか、
と言ったことを常に反省しながら自分の人間性を高め、深めてゆく、それこそが本当の人間学だというのだ。
又、孟子がよく説いた言葉に「自反尽己
」というのがある。
自反とは指を相手に向けるのではなく、自分に向ける、すべてを自分の責任と捉えて自分の全力を尽くすということだ。
今回は年末号だからこの辺りで白状すると、毎月書いているこの「馬耳東風」も実は毎回自分自身に言い聞かせているようなものなのだ。
大変に厚かましいお願いですが、来年も又この様な偉そうな事を書かせて頂くと思いますが何卒「
耄耋独語
」老いぼれの独り言、馬の耳に念仏と読み流して頂ければ幸いです。
来年も何卒よろしくお願い申し上げます。
以上