典 座(てんぞ)
(2017年10月号)

 「典 座」とは禅寺で食事一般をつかさどる僧侶の役職名のことです。
 人間は他の動物と同じように何かを食べなければ生きてゆけないし、又食事は人間を健康にしてくれる大事な栄養源です。
 その大事な食事を作ってくれる典座職の僧侶を親しみをこめて皆「典座さん」と呼びます。
 従ってよく考えてみれば私達が食事をとる真の目的は、肉体の成長をはかると同時に心の発育、 即ち心の糧にしなければ食事をする意味がありません。
 然し、禅寺の調理材料はスーパーマーケットで買ったり、 又いかに偉い人が来られたからといって電話一本で一流の料理屋等から特別食を注文する等ということは許されません。
 従って典座さんのつくる食事の材料は常に彼ら自身が心をこめて田圃や畑を耕し、 自分達で収穫した食材と信者さんからのお施物が中心となります。

そこで典座さん達は、その限られた食材を使ってカロリー計算をし、 いかに美味しく皆が健康で修業出来るような食事を提供するのが腕の見せ所となるのです。
 けれども、仮に、その料理の栄養価が低く粗末なものであったとしても、例えば貧しい家の子供達の毎日の食事が非常に粗食であったとしても、 その食事をつくる母親の愛情がこもっているということを感じとって毎日感謝して食事を頂いている子供達は、 きっとその食事によって心の豊かな、そして愛情深く人の心を思いやることの出来る子供達に成長するのと同じで心の栄養剤となるのです。

毎日高価な栄養価の高い美味しい食事をしている人達の方が人間として頭も良く健康で優れた者になるという保証はなく そのことは全く食事とは無関係です。唯その食事を頂く時の食べ方、頂く時の心構えが大切なのです。
 ところが最近テレビでよく見掛ける、タレント達の食事のマナーの悪さには憤りを感じると同時に、 その映像を日本全国に放映するテレビ局の無神経さだけは何としても再教育し、 無礼で無作法な出演者に対し厳しく注意を促す義務があると思うのです。

私事で恐縮ですが、私は生まれて約半年で母を亡くし、その2年後に二番目の母となるべき生母の妹も又父との結婚の直前に帰らぬ人となった為、 三番目の母(育ての母)が来るまでの約6年間というもの、私には母親がまったくおりませんでした。
 勿論今日の如く託児所等という便利な施設など無かった昭和5〜6年の事、一人っ子たった私はその間、 子供のいない親戚の中年夫婦が同居してくれて家事その他、総て私の世話を見てくれていたのです。
 そして銀行員だった父が夜帰宅してから私と父との二人だけの夕食を摂るのですが、私が一人で食事が出来るようになってからは、 勿論付き添いの助けをかりて、二人の前に出された小さなお膳の中の物だけを、 二人向き合い正座して無言で銘々のお膳の中の物だけを頂いていた記憶がはっきりと残っております。

従って、よく「三つ子の魂百まで」と申しますが、87歳になる今日でも私は人様の食べているものを欲しいと思ったことはなく、又、 人様から「これ美味しいから一つどうぞ」と言われても義理で頂く以外、□にしたことはありませんし、 食糧事惰の極端に悪かった戦時中でも、私はお腹が空いて死にそうだ等と思ったことは無かったように思います。
 それには育ての母の並々ならぬ努力と苦労のあったことは言うまでもありませんが、その母も戦時中、父の病気等、 いろいろな苦労が原因となって54歳の若さで黄泉の人となってしまいました。

前置きが長くなりましたが、今日の如く飽食の時代、最近肥満児が非常に多いとか。驚くことに糖尿病の子供が増加しているとのことを耳にしたり、 「食育」等という言葉が流行しているのを聞くと、老人の私としては、禅寺の食事訓「五観の()」について書いてみたくなりました。
 今までの7回の手術のうち2回の生死に係る手術を経験した私は、現実に「死」と向き合った為か自然と 「これまでの自分の生き方はこれで良かったのか」等とつまらぬことを考える時があり、 そのたびに幾度か禅寺で坐禅を体験させていただきましたので今回はその禅寺の食事訓「五観の偈」を掻い摘んで紹介させて頂きます。
 「(ひとつ)には(こう)の多少を(はか)り、 ()来処(らいしょ)(はか)る」。
 食物が食膳に運ばれるまでの数々の人の労苦を心に(おも)い起こして感謝して頂きます。
 「(ふたつ)には(おのれ)徳行(とくぎょう)の、 全缺(ぜんけつ)(はか)って()に応ず」。
 今私の頂く食物にふさわしい働きを自分は果たしてしてきたか、又それだけ人様のお役に立っていたかと自分の行為を自問自答しつつ頂きます。(みつ)には(しん)(ふせ)(とが)(はな)るる事は、 貪等(どんとう)(しゅう)す」。

心を防ぐとは煩悩を抑えることです。煩悩は私達の身心を苦しめる心の病気ですから食前にその心の迷いを欲深く貪ることのないよう慎みます。 即ち美味しそうなものだけを人一倍ガツガツと食べ自分の嫌いな食物の選り好みは致しませんと全部有難く頂きます。
 「(よつ)には(まさ)良薬(りょうやく)(こと)とするは、 形枯(ぎょうこ)(りょう)ぜんが(ため)なり」。
 この食事を私の心身を癒す良薬と思って頂きます。「形枯」とは人間の体が衰えることで□にする食物は総て薬と思って頂きます。
 「(いつつ)には成道(じょうどう)の為の故に、今此の食を受く」。

食事を頂くのは正しく生きるためだということで、人にはそれぞれに与えられた役があり、その人生の役を立派につとめてこそ「成道」だというのです。
 人は皆それぞれの人生劇場を持って此の世に生を受けて歩み続ける役者です。
 その与えられた役に不満があるからといって全力を出し切らずに終わってしまう人生には必ず悔いが残ります。人生は必ず途中で終わるものです。 然し、だからといって何時も好い加減に生きてしまっては、あまりに勿体無い気がします。
 唯、この最後の「成道の為の故に、今此の食を受く」はよく考えてみると食事だけの事ではなく人の生きる道を示しているようにも思われます。
 「人はパンのみにて生くる者にあらず」(旧約聖書)とは若干解釈に差があるところがあるかも知れませんが、例えば家庭や会社や学校等で、 いろいろな悩み事や心配事を抱えながらの食事をする機会の多い現代の社会の中で大変に難しいことと思いますが、 心の中で手を合わせて「頂きます」「御馳走様」と五観の偈を思い出したいものです。

よく外国のテレビで一家揃って食事の前にお祈りをするシーンがあるように、古い男とお思いでしょうが習慣づける必要があると思うのです。 人は良い習慣を身に付けて、その習慣の奴隷になる必要があります。
 唯、そのうちに宇宙食のようなものが進歩して人間は一日中食事はとらず水も飲まず、 銘々の健康状態に適合して処方された何種類かの丸薬のようなものと栄養ドリンク剤だけで充分健康で長生きが出来る時代が来るような気がします。
 唯、どの様な時代になろうとも、この「成道の為の故に」だけは人間としていつ迄も残しておきたいものだと思うのです。
                     以上
 
  (参考:桧原泰道著「自分を生き抜く」)