老人自戒週間(全気全念)
(2017年 9月号)

そろそろ9月号の原稿を書かねばと思い今年の運勢暦を見ていたら、9月のことを「長月」というらしい。
 何故「長月」なのか、夜がだんだん長くなるからと思ったら、まず目に入ったのが15日の「老人の日」と15日から21日までの「老人週間」、 続いて18日は「敬老の日」そして20日が「彼岸の入り」で23日は「彼岸の中日」、26日は「彼岸の明け」ときている。
 要するに9月という月は老人に関するものばかりで外にめぼしい行事は何もない。
 何故9月だけ、そんなに老人を煽っているのか老人は長生きに通ずるから敢えて「ナガツキ」としたのかと思い、 友人に電話でパソコンの操作方法を教わったが、彼の指示通りにパソコンのキーを叩いても「敬老」の敬も出てこない。
 仕方がないので、その友人にお願いして何故9月に老人関係の行事が多いのかパソコンで調べてもらい、ファックスしてもらうことにした。

それによると、1947年に兵庫県の門脇という村の青年村長が農閑期で気候もいいとこから、まったく個人的な判断で 兵庫県多可郡野間谷村の一つの行事として「としよりの日」と定めたのが切っ掛けで、 9月15日等という日には、全く何の意味もないことがわかった。
 その後「としよりの日」は1950年兵庫県の行事となり、更に1951年「全国社会福祉協議会」によって全国行事に昇格、 1964年に「老人の日」と改称され、1966年、遂に「敬老の日」という「国民の祝日」になったというわけだ。
 その間「ハッピーマンデー制度」とか「全国老人クラブ連合会」(二つとも初耳)等の高齢者団体等の反発により、すったもんだの挙句
 ◎9月15日一老人福祉法で「老人の日」。
 ◎9月15日〜21日一一老大福祉法で「老人週間」。
 ◎9月第3月曜日一祝日法で「敬老の日」が誕生したのだ。
 ちなみに「老人の日」と「老人週間」の意義は、国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、 老人に対し自らの生活向上に努める意欲を促すためとされている。
 又、「敬老の日」は多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝うということらしい。
 2016年の日本人の平均寿命は男80.79歳、女87.65歳、そして健康寿命は男71.11歳、女75.56歳、結局、男の不健康寿命は9.68年、 女の不健康寿命は12.09年ということになる。

あまり耳慣れない学会だが「日本サルコペニア・フレイル学会」というのがあるらしい。
 サルコペニアとは老化に伴って筋肉が減少する状態のことで、フレイルはサルコペニアに加えて活動量や認知機能が低下することで、 自立した生活か難しくなる要介護の一歩手前で、そのまま放置すれば要介護状態になる老人のことなのだ。
 然し、それらの老人の食事や運動を改善すれば、また健康状態に戻ることも可能になるというもので、その学会が出来たらしい。
 現在国内には75歳以上の1〜2割がフレイル状態と推計されており、そこでこの学会では来年度から看護師達を対象にフレイルの診断や指導法を 身につける研修を実施し、「認定指導員」として地域での高齢者のケアや支援に充てることによって、少しでも健康寿命を延ばそうというのだ。
 これは「天の邪鬼」の私の独善的な考えだが、個人差はあるものの、要介護の老人達の健康寿命の延長が必ずしもその人の幸福につながるとは 限らない、そこで「老人の日」や「敬老の日」もいいが「老人週間」を「老人自戒週間」にする方が有意義なような気がする。

ますます高齢化の進む日本、認定指導員達の協力によって再び健康をとり戻した老人達は、せっかくの「与生」(余生に非ず) を積極的に自分の生活向上に努め、臨終を迎えた時、これで自分は十二分に幸福だった、日本に生まれ、 実に良い人生を送らせて頂いたと総ての人に感謝しつつ一生を終れるよう、 これからの毎日を常に自戒の心を持ちつつ送る習慣を身につける必要があると思う。
 偉そうな事を書くが「「人生は臨終までの修業なり」、より良き生のみが、より良き死を迎えることが出来る。
 今からでも決して遅くはない、相田みつお氏の詩「生きているうち はたらけるうち 日のくれぬうち」だ。
 幸田露伴(1867〜1947)に「努力論」という名著がある。それによると、人生に於ける成功者と失敗者には一つの法則があるという。 それは大きな成功を遂げた人は、失敗は総て自分のせいだと考える、 それに反して失敗の理由を人のせいにする人はその失敗からは何も生まれないし又学ぶ事もない。
 然し、失敗や不運の因を自分に引き寄せて捉える人は辛い思いもするし又苦しみもするが同時にあの時こうすべきだったと反省の思慮を持つ事になり、 それが進歩につながり前進であり向上心につながるという。
 要するに、「善因善果・悪因悪果」ということだ。

幸運や不運は気まぐれや偶然ではない、自分のあり方が引き寄せるものだと彼は言う。
 露伴のこの単純な一言こそ、人生を後悔しないための何よりの要訣だと私は思う。
 又、彼は「幼にして長じ、長じては老い、老いて死するのが天教」だと言う。
 これが人間の姿なのだ、然し人間は自然に任せて加齢とともに衰え集中力を欠くようになり、惚けていくしかないのだろうか、 彼は「進化が自己の意思に参することを人間に限り許している」という。
    ゛゛  人間は他の動物と違って知恵と工夫によってより良き「生」を自分から獲得出来る存在なのだ。
 人が加齢とともに衰えるのは誰しもが日常的に目にすることで、それはまず体力的な衰え、運動神経の鈍化となって表れる、 これを防ぐには何か大切か、露伴はそれを「全気全念」という。

足に衰えを感じたら足に心を向ける、すると気が足に行く、気が足に行くと血が足に行き血が足に行くと足に筋肉がつき衰えを防ぐという、 これが「全気全念」ということで「心は気を率い、気は血を率い、血は身を率いる」というのだ。
 人間には動物にない特殊な脳がある。その全気全念を脳に向ければ脳は必ず向上する。彼はその起点となるのが『心』だと結論づける。
 全気全念を脳に向けるにはその前提として心を養い身を修める必要がある。即ちそれが「修養」という人間学なのだ。
 老いの衰えを克服し、悔いのない全き人生を生きる切る要訣中の要訣がここにある。
 慶応義塾大学の曾ての塾長、小泉信三をして幸田露伴は修養の人でした、これといって学歴のないにも関らず、 独学で「百年に一人の頭脳」といわしめた広大深遠な博学博識を獲得したのは、彼が常に心を養い、 身を修めることを怠らなかった表れなのだと思う。

健康な身体に健全な精神が宿る如く、政府の決める認定委員の指導に従って健康をとりもどすのもいいが、 9月15日からの一週間を「老人自戒週間」又は「全気全念週間」と改め、「内観法」によって過去の事等総て捨て去り、 これからの与生を如何に自分に納得して生き切ることが出来るか、真剣に考え行動する一週間にするのも各個人にとって意義のある事だと私は思う。
 7回の手術をしている87歳のこの末期高齢者の私でもこの「老人自戒週間」の今からの挑戦は決して遅くはないと思っている。

人間の進歩を妨げるのは決して年齢ではない、何かを「やりとげよう」という初一念を持つことだ、 そして若さを保ち老いを防ぐには自分を開発する以外にない。
 「人は信念と共に若く 疑惑と共に老いゆる
  人は自信と共に若く 恐怖と共に老いゆる
  希望のある限り若く 失望と共に朽ちる」
 唯同じ朽ちるにしても、なるべく周囲の人達に迷惑をかけず、「生涯現役・臨終定年」といきたいものだ。
 私に「敬老の日」はいらない。

最後に友人から送られてきたパソコンに「長月」の名前の由来は書かれていなかった、これは私かその由来の意味を聞き忘れたからで、 やはり年はとりたくないものだと最近つくづく思っている。
 おそまきながら私も「全気全念」に挑戦しようと思う。
                          以上