道徳教育(U)
(2017年 5月号)

風薫る5月、先月号で私は専門外の道徳教育について書かせて頂き、さつきや躑躅(つつじ) 等百花繚乱の季節の今月は、この「馬事東風」も28年目に入ることだし、何か片意地を張らずに、 五月晴のような爽やかな話題を見つけて書きたいと思っていた。
 ところが、その後2018年度に小学校の正式教科となる「特別教科・道徳」の教科書検定について新聞やテレビでのいろいろな報道を見聞きするうちに、 やはり今月も素人の道徳教育について「「60年越の持論」を書いてみたくなった。
 即ち、「道徳」の教科書検定の段階で、伝統と文化にからんで、パン屋に親しむと郷土愛が薄れるからとパン屋を和菓子屋にかえたり、 高齢者に尊敬の念を持たせるとの理由で消防団員のおじさんをおじいさんに訂正して検定をパスさせたり、 私には何とも理解に苦しむところであるが、特に学習指導要領に「父母、祖父母を敬愛し、家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくること」 とあるが、それでは家庭に父母や祖父母がいる前提で楽しい家庭をつくることを教科書が方向づけすることになる。

最近では、ひとり親家庭の増加で子供達の家庭環境は多様化しており、家族といえるものがない子供達もいるし、虐待を受けている子供達もいる。
 それらの子供達に、あなたの家庭は駄目なのだと()め付けることになる。 それでは国が良いことと判断した価値観を教科書を通して子供達に押しつけることになるという。
 又、信じられないことに、「いじめ」に関する題材は全教科書が取り上げているが、現にいじめが行われている学級で、いじめを扱うのは難しい、 従って、いじめを真正面から扱う題材を控えて「生命の尊さ」などの項目で間接的に指導すべきである、 と隔靴掻痒(かっかそうよう)の如き意見さえ飛び出す始末。
 然し、いじめに関して言えば、福島県会津の県立高校での女子生徒の自殺に関し、 県の第三者委員会が「自殺の原因を学校が積極的な対応を怠ったことが原因で、学校の不適切な対応が生徒を自殺に追い込んだ」と指摘しているように、 概して学校側の対応の悪さばかりが目につく。学校側はいかなる理由があろうとも、いじめは絶対にしてはならぬと、いじめと真正面から向き合い、 いじめる側に対し毅然たる態度をとらぬ限り、道徳教育を正式教科とした最大の原因である「いじめ」を根絶することは出来ない。
 そしてこの様な意見のある事を知るにつけ教育関係に携わっている人達の考えの中に、何か一つ大事なものが抜け落ちている様に思えてならない。

今から約60年前、私は国内最大手の洋紙販売会社の営業マンとして、東京書籍や学校図書等全国の主な教科書出版会社に教科書用紙の抄紙販売を専門に 3年間営業をした経験がある。
 その関係で今でも教科書検定に関しては少なからず関心があり、当時検定をパスして刷り上がったばかりのゲラ刷りの教科書を見ながら、 その内容が特に道徳心に関する文章に茫洋とした表現が目立ち、これでは教師個人個人の解釈次第で、 右とも左とも指導することが出来ると漠然とした不安感を感じ、これからは、どうしても確固たる宗教倫理感を待った教師のもとでの教育が必要になると思い、 私の二人の娘をミッション系の小中高の一貴校に入れた経緯がある。
 それらの事等思い出しながら、道徳教育の教科化、特に中等教育のレベルではどうしても道徳教育の理論的な研究の底上げの為に道徳の授業を専門とする教員の養成が不可欠であり、 出来れば大学に「道徳」の特別講座を設けて、文部科学省の中に「道徳の専門免許制度部署」を新設すべきだ。
 然し、だからといって「道徳」の問題は道徳教育の免許を待った教師だけに総てを任して後はまったく無関係ということではなく、 そこにこの道徳教育の難しさが潜んでいる。
 「あの先生にだけは言われたくない」と生徒から後ろ指を指されない為にも、先生自身が、しっかりとした道徳を身につける必要がある。
 今のような状態で来年4月からの道徳が正式教科となっても、いじめはなくならず、 教科化しても何も変わらないじゃないか、佛つくって魂入れずだと言われかねない。
 道徳教育の再生は若者達の教育全般の再生につながり、教育全般の再生は延いては日本の再生につながると私は信じる。

前にも書いたが、新渡戸稲造の世界的名著「武士道」の序文に「十年程前、私(新渡戸氏)がベルギーの著名な法学者ド・ラブレー氏から 日本の学校では宗教教育がないと言われますが、それではあなたがたはどのようにして道徳教育を授けるのですか、と質問されて愕然とし、 すぐに答えることが出来なかった。なぜなら、私か子供のころに学んだ人の(みち)たる道徳の教えは、 学校で習ったものではなく、私の善悪や正義の観念を形成しているさまざまな要素を分析してみて初めて、 そのような観念を吹き込んだものは武士道だったことに気付いた」と書いている。そして最後に「武士道がわからなくては、 現在の日本の道徳観念は、まるで封をした“巻物”と同じことだとわかった」と締め括っている。
 武士階級の栄光として登場した武士道は、かつては日本国民全体の憧れとなり、その精神を表わす「大和魂」、日本人の魂は、 かつてはこの島国の民族精神を象徴するものとなっていた。
 然し、敗戦後七十数年を経た今日、悲しい哉、その武士道の精神は影を潜めてしまった。
 新渡戸稲造が「武士道」を世に出してから120年の月日が流れた。 来年4月から正式教科となる「特別教科 道徳」が封をしだ巻物"とならぬことを祈るばかりだ。
                     以上