道徳教育
(2017年 4月号)

この月、気温は日一日と上昇し、陽光も明るさを増し、桜前線も順調なペースで北上してくるだろう。
 子供達にとっては、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学とそれぞれ新入学、新学期を迎えて新しく何かが動き始める躍動の月であり、 新入社員達は社会人としての自覚と責任を(たずさ)えて荒海へと旅立つ、 昔であれば初陣の季節でもある。
 中学校以上の若者達にとっては、いささか手後れの嫌いがあるが、2015年3月に学習指導要領が一部改訂され、 教科外の活動と位置付けられてきた「道徳」が、2018年度に小学校で、又2019年度に中学校でそれぞれ正式教科になる。
 終戦直後の1945年12月、GHQから「修身・日本歴史および地理停止に関する件」という指令によって、停止されていた「修身」を 「道徳」と名称をかえた教科として教えようという話しが出てから70年の歳月が流れた。まさに戦後70年の悲願ともいえる「道徳」 の教科化か制度的に追加された意義は非常に大きいといえる。

かって1958年、道徳の時間が小中学校で週一時間設けられたことがあったが、「戦前の修身に戻るのか!」 「特定の価値観の押しつけをするな」と日教組が道徳教育を政治問題化し、戦後の道徳教育をどのように打ち立てていけばいいのか 本質的議論が出来なくなり、せっかく一教科として位置付けられた「道徳の時間」も日教組の徹底した反対によって教科外活動の一つ という非常に中途半端な時間となり、クラスの席替えや運動会の予行練習等という時間に振り替えられ完全に形骸化し、 教育現場で機能しなくなってしまったという苦い歴史がある。
 諸外国では名称こそ「倫理」とか「宗教倫理」等となってはいても、平均して週三時間程度は授業を専門の教師が教科書を使って道徳の授業を 行っているときく。
 戦前、小学校の授業に「修身」があった時代、昭和一桁生まれの私達は「教育勅語」の「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ 恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓登シ徳器ヲ成就シ」と今でも全文をはっきりと暗記している。
 最近、森友学園問題で何かと物議を醸しているが教育勅語の中のこの文章だけは少なくとも今の日本にとって必要なものであり、 今度の道徳教育復活によって、はっきりと子供達の脳裏に叩き込んでもらいたい。

 「お 宝何でも鑑定団」ではないけれど、改めて今回の小学校の学習指導要領が定める道徳の内容を見てみると、 「善悪の判断、自律、自由と責任、正直、誠実、親切、思いやり、感謝、礼儀、規則の尊重、公平、公正、家族愛、生命の尊さ」 等と誠に立派な言葉が並んでいる。
 戦後70年が経ち、ようやく道徳の教科化に至った背景には、深刻ないじめや子供の自殺、企業内パワハラスメント、親が子を殺し、 子供や孫が親や祖父母を殺すといった凄惨な事件が日常茶飯事になり、このままでは日本社会が崩壊しかねない という危機感が広がったからに他ならない。
 又、人と人との関係性が崩れていることの象徴として孤独死や無縁死の増加があり、内閣府は2040年には孤独死・無縁死は推定20万人になると言い、 「引きこもり」の増加もやがて深刻な社会問題となるのは目に見えている。
 この様な社会状態のもと、道徳教育の充実こそ日本再生の特効薬だと私は諸手を挙げて大歓迎である。

然るに驚いたことに、道徳の成績評価は子供の心の内面の評価で価値観の画一化にもなりかねないとして教員の不安や反発をかい、 全国の小中学校教員の7割が教科化に反対だという
 前述の学習指導要領の定めた道徳観念の価値観「家族愛、正直、誠実、親切、思いやり、感謝、礼儀、生命の尊さ」 等の画一化のどこが悪いというのだ。
 更に、その反対の理由が、道徳の評価が入試に関係すると、子供達は「本音と建前」を使い分けて、教師に良い印象を植え付けようとする、 「うそも方便」と「うそは泥棒の始まり」という相反する諺を紹介したりしながら、子供達と一緒に考えることが大切だ。 考え方や生き方など心の内面の自由に深く関わる道徳的価値観を評価すること自体大きな問題だ(新聞掲載原文のまま)等と 某大学の教育政策専門の教授か臆面もなく書いている。

かつて、大谷竹治郎は「佛のうそを方便といい、軍人のうそを戦略といい、興行師のうそを商いといい、政治家のうそは常識という」 と言ったが、(けだ)し名言である。
 佛のうそは方便というが一般の人間は絶対に嘘をついてはいけない、それが道徳の教えだ。
 良い点数をとりたい為に教師の前では良い子ぶって、教師が見ていなければ悪いことを平気でする、本音と建前を使い分け「うそも方便」 と(うそぶ)くうな、 さもしい子供達は絶対に容認してはならない、それをはっきりと子供達の魂に、たたき込むのが教師の務めではないか。 敢えて教科としての「道徳」に点数をつける必要はないと思う。
 折角、道徳が正式教科となっても、このような教師のいる限り子供達に真の道徳を身につけさせるのは不可能だ。

失われた70年の「付け」がまわって、責任を負うべき立場の人達が無責任となり、問題が起きると他者へ転嫁したり 責任を逃れる言葉だけ長けている人が高い地位につき、豊洲新市場問題等においても、専門家でないからわからない、 交渉事は総て○○に一任した、そのような事実は記憶にない、総て行政全体の責任だと、ぬけぬけと言う、それが果し合いにおける侍の言葉か、 武士の風上にも置けぬ腰抜け侍、無責任の権化、原稿の締切の都合で残念ながらこの事件の結末を書くことは出来ないが、 3月20日の百条委員会を「既に説明責任を果たした」として体調不良を理由に欠席し、病院に入院しなければいいが。
 それこそ道徳心の欠如の何ものでもない。
 今の子供達が成長して、教師自ら道徳心とは如何なるものなのか、しっかりと学んでもらいたい。
 「いつ、死ぬる 本の実は蒔いておく」(山頭火)
 然し、折角蒔いた種も1年耕すことを怠ると、もとの美田をとりもどすのに7年を必要とする。 その耕すべき土壌は現代の社会や家庭にも言える。現代ほど社会や家庭と言う土壌が()せている時代はない。 瘠せた土壌の社会や家庭で育った子供達は、豊かな心を実らせることは出来ない。社会や家庭という土壌を深く耕し、 肥料を与え明日を信じて種を蒔くことが今の大人達に課せられ一だ使命だ。

物事には「絶対にならぬものは、ならぬ」というものがある。この絶対という観念が絶対に必要なのだ。これは理屈ではない。
                        以上