彼  岸
(2017年 3月号)

春らしい陽気の日があるかと思うと、急に真冬に立ち返ったような寒い日もある3月、弥生。
 関西では、12日の奈良東大寺二月堂のお水取りが終わらないと春がやってこないという言い伝えがある。
 “暑さ寒さも 彼岸まで”
 春分と秋分の日を彼岸と名付けて佛様の行事を営むようになったのは平安朝以降のことで、鎌倉時代に非常に盛んになったという。
 「彼岸」とは言うまでもなく、「比岸」に対するもので、佛教では悩みの多い人間苦に打ち勝って理想を実現するように、 即ち各自が自分の全力を尽くして正しい生活をし、自分の真の幸福を求めると同時に、 総ての生きものを幸福にするよう努力する日とされている。

平安朝の蜻蛉(カゲロウ)日記や更科(サラシナ)日記によると、 お彼岸は精進日として寺に籠り、少なくともこの日一日生活を慎み、悪いことを行わないように心掛けたという。  「諸悪莫作(ショアクマツサ)衆善奉行(シュウゼンブギョウ)」 (七佛通戒偈(シチブツツウカイゲ))。  (モロモロ)の悪を() すこと(ナカ)れ、 (モロモロ)の善を奉行(ブギョウ)せよ。
 人は誰でも悪いことをしてはならない、善いことをせよということは知っている。然し無心のうちにこれを実行できる人は少ない。
 白楽天は道林禅師を訪ねて佛法を聞いた。
 「如何なるか是れ佛法の大意」、道林禅師は悠々と答える。「諸悪莫作・衆善奉行」と。
 白楽天は、あまりに簡単なその答えに暫し沈黙。
 「そんなことは3歳の子供でも知っている、然し、いざ実行するとなると80歳の翁でもなかなかできないものだぞ!」。
 白楽天は、この一言で大いに悟ったという。

 「子貢 (シコウ:孔子の弟子が孔子に)問うて曰く、一言にして以って身を終るまで之を行うべき道有りや、子曰く、其れ 『(ジョ)』か、己の欲せざるところ、 人に施すこと(ナカ)れ」。「恕」とは究極の仁、真心こもった思いやりのことだ。
 せめてお彼岸の中日の前後3日、合計7日間だけは親と子、夫と妻、兄弟姉妹が仲睦まじく家族の喜びを自分の喜びとし、 友人、知人お互いに人の立場に立って相手の気持ちを思いやり、和気あいあいと感謝の気持ちをもって接したいものだ。
 「三つの時の写真と 七十三歳の写真を
 並べて見ていると 守られて生きてきた
 数知れないあかしが 潮のように追ってくる
 返しても返しても 返しきれない数々の大恩よ」
                −村真民−
 人間が幸せで健康に生きていく上での一番の秘訣は、無数の恩によって生かされているということを、しっかりと自覚し、 その有難さを噛み締めることにある。
 「生きているということは
 誰かに借りをつくること
 生きているということは
 その借りを返していくこと
 誰かに借りたら 誰かに返そう
 誰かにそうしてもらったように
 誰かにそうしてあげよう」   −永六輔−

年をとり、次第に衰えてゆくのが無常であり、子供が次第に成長してゆくのも又無常である。無常を悲しんでみたり、喜んでみたり、 これが人生というものだろう。
 同じ環境や境遇にあっても、喜んで生きる人と全く喜べない人がいる。喜んで生きる人は不平不満を抱えて生きている人を気の毒に思う。 反対に常に不平不満をもって生きる人は幸福そうに生きている人を莫迦だと思うだろう。どっちが莫迦だろうか。

私は先月号で「生き甲斐」について書いた。
 生き甲斐とは、日々の生活の中で、どのような事にあっても、又何をなすにしても常に希望と喜びをもって生きることだ。
 そして何に生きる価値を見出すか、その価値観を誤らぬことだ。
 価値には計算ずくめでみる実利的相対価値と、それを超えた絶対的価値がある。 人間として純粋至情のまことの心にふれる絶対的価値に目覚めることが大事なのだ。
 佛教では絶対的価値に目覚めることを、如来の光明に触れると表現し、現世の苦悩の中に彼岸を見出し、娑婆即浄土と、 この世の中で真の喜びを味わい、此岸と彼岸を一つにするよう常に心掛けねばならないと説いている。
 “けふ彼岸 菩提のたねを蒔く日かな”
 菩提とは悟りということで、お彼岸は迷いを捨てて正しい生活をしようと決心を新たにする日であり、 煩悩の中に涅槃を見出そうとするのが大乗佛敦の教えなのだ。

太陽が真西に没し無欲悟道の彼岸に一番近いとされるこの日に、西方浄土に死者の冥福を祈り、佛様を供養し、 家族揃ってお墓参りをするのは、昔から日本に伝わる美しい風習だ。
 何としてもこの風習を廃れさせてはならない。
 
          付記
 永六輔著「大往生」の最後の頁、「彼自身のための弔辞」の一節
 「永六輔さん。
 あなたは『大往生』という本をまとめて、タイミングよく、あの世へ行きました。
 あなたはいつも無駄のない人でした。
 (中略)そして、読みかじり、聞きかじりの話をまるで自分が考えたように脚色する名人でもありました
」。云々。
 私の場合はこの文章が読まれているそばから次々と馬脚が現れてきそうで心配だ、名人が羨ましい。
                     以上