新年おめでとうございます。
厳しい冬を無事に越して春を迎えるにあたって、歳の神をお迎えして五穀豊穣を祈るところから、
昔の人は「お芽出たう」と祝いの言葉を交わしたという。
そして、今年も又御先祖様の御加護を頂いて無事に過ごすことが出来ますようにと氏神様にお詣りするのが初詣なのだ。
人は自分一人の「力」で生きているのではない、大きな目に見えない「力」に助けられ、
そのお蔭で無事に毎日を過ごすことが出来るのだということを再確認するのが正月の行事なのだと思う。
然し、人はその御加護に甘んずることなく「人間の真価は、その人がいつまで道を求め続けられるか、その緊張の長短によって測ることが出来る」
と森信三氏は戒めている。
著名な馬術家、J・フィリス(1834〜1913)は馬術の根本は馬の旺盛なる前進気勢を利用することである、と「前進・前進・常に前進」
を信条として近代馬術の基礎を築いた。
今年の年賀状に私は「すべてとどまると くさる このおそろしさを しろう つねに前進 つねに一歩 空也は左足を出し
一遍は右足を出している あの姿を拝してゆこう」と私の好きな坂村真民の詩を自戒の意を込めて書いた。
何故なら70数年間の馬乗り生活の報いで腰部脊椎管狭窄症が悪化して遂に自分の尻を鞭で叩いたくらいでは足が前に出なくなり、
仕方がないので毎日仕事の予約を入れて否応なしに前に進まざるを得ないように、要するに自分の鼻先へ常にニンシンをぶら下げて、
それを食べなければ餓死するしかないという状態を創ることにしたのだ。
毎月書かせて頂いているこの拙文も、まさしく人参の一つということになる。
その拙文も早いもので後4回で28年目に入るが、書き始めて間もない或る日、私は小学校の同級生で非常に仲の良かった松岡新児君を
家に招いて久し振りに美味い酒を酌み交わした。
彼は夏目漱石の長女・筆子さん(筆子さんは漱石門下の松岡譲氏と結婚)の次男で早稲田大学卒業後、NHKに入り放送記者として活躍した後、
放送文化研究所で放送の言葉を研究し、日本大学法学部新聞学科の教授をしていたので、
「生意気に俺も最近月刊誌にエッセイらしきものを書いている」と言うと、信じられないというような顔をして、
それでも不特定多数の人に読んで頂く文章を書くのは、なかなか難しいものだ、と言って自著の「伝えたいことを的確に表現するコツ」
と副題のついた「読ませる200字文章の書き方」(ごま書房)という本を私にくれて、「エッセイを書くなら、
私的な経験を主観的に書けばいい」とアドバイスしてくれた。
その彼も残念なことに十数年前に故人となったが、きっと彼の世で私の文章を読んで苦笑していることだろう。
以来、文豪・夏目漱石の孫の大学教授の教えを自分なりに守って、私的な経験を主観的に書こうとすると、
どうしても文末に「私はこう思う」とか「私はこう考える」と書きたくなり、そう書いたことで一応文章のおさまりはつくものの、
何となく安易な感じがして極力使わないようにしているが、かと言って外に適当な言葉も思いつかぬまま、不本意ながらつい使ってしまう。
そして改めて活字になった文章を読み直してみると「思う」と「考える」の使い分けで何となく、
しっくりこない文章がたまにあることに気が付いた。
そこで早速手元の辞書を引くと、「思う」は胸中で単純な一つの希望、意思、判断を持つ。
「数学は難しいと思う」。「考える」は、あれこれと比較したうえで結論を出す。「数学の問題を考える」と使い分けの解説まで載っていた。
そう言われてみれば、確かにパスカルの「人間は考える葦である」を「人間は思う葦である」とすると、どうもしっくりこない。
それではデカルトの「我思う故に我あり」はどうだろう、言葉の調子は良いが、本当は「我考える故に我あり」
としたほうが正しいのではないだろうか。
無神経に20数年も拙文を書いてきたが、これまでの私の文章は果たして不特定多数の人達に私の意図したところが的確に伝わっていただろうか、
と不安になってきた。
日本ペンクラブで何回か食事を共にした井上ひさし氏は、「むずかしい事をやさしく、やさしい事を深く、深い事を面白く」と言うが、
その表現方法は容易い事ではない。
そして今年からは何とか私の鼻先の人参を無農薬で少しでも栄養価の高いものにしてみたいと、正月早々、「苦しい時の神頼み」
で近所の氏神様にお願することにした。
然し、私の尊敬する松原泰道老師は、曾て、信仰とか信心とかいうと自分の願いや望みを叶えてもらう為に神や佛に頼むことだと考えている人が多い、
そうしてその願いが叶うと、ご利益があったと、どこまでも自分本位だ。他人のことなどまったく考えていない。
ご利益の正しい意味は他人の為になることであり、他人を救うことだ。と明解に定義づけていたのを思い出し、
聊か気が咎めるが、
老師の説は一応ご尤もとして、私は宗教家ではないのだからと思い直し、
「今年からは、もう少しましな文章が書けますように」と真剣に氏神様に手を合わした。
これが「我思う故に我あり」ではなく、「我考える故に我あり」と考えた末の老い先短い私の結論である。
今年も何卒よろしくお願い致します。
以上