晩節を汚す
(2016年11月号)

晩節を汚す、という言葉がある。
 これは晩年になって、これまで堅く守ってきた信念や主義主張を破り無責任で卑怯な振舞や又は破廉恥な行動をとってしまい、 人望を失い有終の美を飾ることが出来なくなったことを言う。
 「人生は臨終までの修行なり」、人は死の直前まで修行を怠ってはならない、その修行の目的は自己を磨くことにある。
 クラーク博士の有名な言葉、「少年よ大志を抱け」には続きがある、「少年よ大志を抱け、それは金銭や利己的誇示のためではない、 又世の人々が名誉と称する、その実、虚しき事のためでもない、人として当然そうあるべき事を達成せんとする志を持つことだ」と。
 戦前の小学校に「修身」という学科があった時代、その修身の授業を受けたはずの大人達の、 しかも平素偉そうな事を臆面もなく言い続けていた者達が、最近何とも厚顔無恥な行動や発言を繰り返すのを見聞きするにつけ、 どうしても一言苦言を呈したくなった。

「政 治とカネ」の問題で任期半ばで職を追われても何ら反省の色をみせぬ二代前の都知事のI氏、同じく政治資金の不正使用や高額な海外出張、 公用車の私的利用等で公私混同が甚だしく、これ又任期半ばで失職した無節操きわまりない前知事M氏、 尚その上今度は三代前の何とも卑怯未練な逃げ目上の捨て台詞(ぜりふ)。 よくもこんな「じぶたれ者」を三代も続けて選んだものだ。
 「じぶたれ」とは骨董用語で品が悪く物欲しげな骨董品のことで、漢字では「自負たれ」と書き、自惚れだけは一人前という意味もある。
 その三代前のI氏の言う伏魔殿とは、中国明代の長編小説「水滸伝」に登場する魔物達の住む御殿のことで、 その伏魔殿の大将となったI氏には、そこに巣くう魔物達を退治しようという気は毛頭なかったらしい。
 そして奇しくもその水滸伝には、水のほとりの物語という意味がある。

東京湾のほとりにある築地新市場の騒動も収まる気配は一向になく、むしろ問題は拡大するばかりだ。
 空洞は誰の判断で作り、建設予定価格はどんな経緯で変わったのか、又移転先が曾て巨大なガスタンクや煙突が林立し、 エネルギー基地として、曾ての高度成長を支え続けた蔭で土壌は汚染されてしまったそんな豊洲に何故決定したのか、 そして土壌汚染対策として都民の税金858億円も投じた豊洲市場3棟の再入札では何故406億円も増加し、 然もゼネコン数社の落札率が限りなく100%に近かったのに、「まったくの偶然だ」と平然と (うそぶ)くゼネコンに対し、何故か一言も疑問の余地を示さぬ都庁の関係者達、 それが官僚制の事なかれ主義、秘密主義、前例主義等役人達の病理のなせる技なのだ。
 その伏魔殿に対し、水滸伝に登場する豪傑達の拠点である梁山泊に陣取り魔物達の疑惑に対し「東京大改革」 を旗印に敢然と斬り込んでゆくK女史の手腕に大いに期待したい。
 又、このK女史には2020年東京オリンピック「錦の御旗」と勘違いしている命令系統の有耶無耶な団体にも 国家的見地から断乎たる結論を下す役目が控えているのだが果たして今の梁山泊に幾人の豪傑が彼女の味方に付くものやら、 この原稿が活字になる一ヵ月半後の日本、神ならぬ身のその予想はつきにくい。
 その外にも1兆円の国費を投入した「もんじゅ」の廃炉問題、そうかと思うと、 これは又何ともお粗末な富山市議の政務活動費の不正受給問題、 これは明白な公文書偽造の公金横領の犯罪であり金額の多寡に関係なく検挙すべきであり、先の前代、 前々代の都知事同様謝罪して辞職しただけの幕引きでは真面目に働き納税している我々に対する大きな背信行為だと言わざるを得ない。
 然もこれらの行為は氷山の一角のような気がしてならず、他の自治体も調査する必要があるが、 これは暴力団に暴力団の調査を依頼するようなもので満足な解答は望み薄だ。

新渡戸稲造の世界的名著「武士道」によれば、かつてヘンリー・ノーマン(英国の旅行家)は極東事情を研究し、さらに観察した後、 日本が他の東洋の専制諸国と異なる唯一の点は「人類が考え出したことの中で最も厳しく、 最も高尚でかつ厳密な『名誉の掟』が国民の間に支配的な影響力を及ぽしたことにある」と断言している。
 武士階級の栄光として登場した「武士道」は、やがて国民全体の憧れとなり、その精神を表わす「大和魂」「日本人の魂」 は遂にこの島国の民族精神を象徴する言葉となった。
 ”敷島の大和心を人問わば
     朝日に匂う山桜花。(本居官長)
 この朝日に匂う山桜の花の如き心を待った武士のイメージは、
 1.決断力のある果敢な性格の持ち主
 2.責任感の強い正義漢
 3.筋道を通す信念の人
 4.卑怯な振舞は断じて行わず
 5.恥を知り名誉を命より大切に思い
 6.武士に二言はなしと約束は死んでも守る
 等々である。

この「名誉の掟」を忘れて、己の誉れ、栄光、自尊心、人格を汚されても何とも思わぬ(やから)、 政治家達は□を揃えて国の為、国民の為、というが、イ偏(にんべん)に人の為と書けば 「偽り」となる、彼等はまず自分あっての人の為なのだ。
 又、イ偏に言と書けば「信」となり信用とは信じて任用することだ。
 僅か一部を除き人間程約束を違えて何とも思わぬ者はいない、と明治中期の高僧・間宮英宗は言っている。

馬と付き合って70数年、私は未だ曾て馬に裏切られた事は唯の一度もなく、犬も40数年飼っていたが、 私に対して曾て一度も犬馬の労を厭ったことはない。
 従って、それらのことを考えて信のイ偏を獣偏とすべきところだが残念なことに 獣偏に言という字はゴンとかギンと発音する立派な漢字として存在し、犬のかみ合う声のことらしい。
 願わくば今後日本の若者達が曾ての日本人の如く武士道の精神、大和魂を身に付けることを切に望みたい。 終りに私自身偉そうなことを書いた手前もあり、何とか晩節を汚さぬように努力するとしよう。
                           以 上