ドンキホーテの呟き(X) (新しいオリンピック)
(2016年10月号)

南米発のリオ五輪は、政情不安、事前のジカ熱の流行等多くの懸案を抱える中、また経済情勢の悪さを反映してか空席が目立ち、 運営面でも批判を浴びながら、それでも約85,000人の厳戒警備体制のもと、テロの魔の手にかかることなく、 アナウンサーの絶叫のうちに無事その幕を閉じた。
 日本選手団は前回のメダル38個を上回る41個を獲得し、日本スポーツ界は4年後に向けて更なる成果を胸に秘め、 メダル報奨金の大幅増額や各種競技施設を増強整備し、若者達のスポーツ熱を煽り立て、勝利至上主義に向かって突き進むことだろう。
 今回の日本選手達の活躍は勿論の事、世界各国の若人達が日頃鍛錬の成果を十二分に発揮して、 人間技とは思えぬ妙技を披露する姿は人々を魅了し、感激と感動とそして勇気を与えてくれた。 リオ五輪に出場した全選手に心から拍手を送りたい。
 その意味からすれば、リオ五輪は確かに大成功だったと言えるだろう。

然し、4年後の東京五輪に向けて橋本聖子選手強化本部長は「メダル数が目標に達しなければ、 如何に良いスポーツ環境が整備されようと成功とは言えない」とオリンピックの真の目的を履き違え、勝利至上主義を真っ向に振りかざした。
 そして、その暴言に追従する無知なスポーツ関係者や、未熟な指導者達によって何万、 何十万人もの若者達が大事な一つしかない人生を溝に捨ててしまうことを考える時、「お国の為」と言われて無謀な戦争に駆り出され、 無残に戦死していった多くの若者達と何か一脈相い通ずるものがあるように思えてならない。 スポーツというものは未熟な指導者にかかると、練習すればするほど下手になるものなのだ。

私が2003年来、二十数回にわたって書き続けてきた如く、オリンピック憲章では、「スポーツ(競技スポーツに非ず)を通して青少年を教育することによって、 平和でより良い世界づくりに貢献すること」となっており、その精神のもと「スポーツ文化を通して人々の健康と道徳の資質を向上させ、 互の交流を通じて互いの理解の度をめ、友情の輪を広げることによって住み良い社会をつくり、 ひいては世界平和の維持と確立に寄与することを主たる目的とする」とあることを忘れてはならない。
 果たして今回の各国選手達は平和の使者としてその主たる目的を立派に果たしたと公言出来るだろうか。
 又、スポーツの語源は、我を忘れて熱中すること、であり、スポーツの神髄は相手に勝ったとか、負けたとか、 メダルの色がどうだ等という、そんな吝嗇(けち)なものではない。 スポーツとは柳生宗矩のいう「我人に勝つ道を知らず、我に勝つ道を知りたり」の一語に尽きる。
 恐らく今回オリンピックに出場した選手達は、我に勝つ道を見出し、天性の素質と相俟(あいま)って 選手に選ばれたのだ。

その上で各選手達は1908年第4回ロンドン大会の折、セントポール寺院のペンシルペニヤ司教の「オリンピックで重要なことは、 勝つことではなく世界平和の為の一翼を担うという誇りをもって参加することに意義がある」を第一義に、近代オリンピックの創始者、 クーベルタン男爵の「人生で最も重要なことは、勝利者であることではなくその人が努力したかどうかである」 ということを常に念頭において競技すべきなのだ。
 今回のリオ五輪では確かに内戦や民族紛争中の国々や宗教上の解釈の違いから争いの絶えない国々の選手達が同じグラウンドでお互いに (いが)み合うことなくその技を競い合った。
 然し、オリンピックは決して国と国との勝負でも、国威発揚の場でも、又世界記録やオリンピック記録の更新でも、メダルの数を競い合うことでもない。 現にオリンピック憲章では国際オリンピック委員会(以下IOCという)と大会組織委員会による国別メダル順位表の作成を禁じている。
 競技場で極く自然に起こる国家的な誇りや国民感情の(ほとばし)りは ある程度容認するとしても、ナショナリズムがスポーツを引きずり回すという傾向はオリンピック精神に (もと)るものであり、IOCはスポーツの理解者だけが集まる個人的な国際社交クラブであり、 スポーツ以外の要素の介入は断じて許してはならない組織なのだ。

その意味に於いて、1963年西独で開催されたIOCの総会で議題にのぼり、惜しくも否決された 「オリンピックを政治の攻撃から守る一つの手段として、表彰式における国旗の掲揚と国歌の吹奏を中止する」という議案を、 ぜひ東京オリンピックより実施するように総会で再提唱する必要がある。
 (くど)いようだが五輪憲章の根本原則が提唱する平和の理念は 「人類の尊敬の保持に重きをおく平和な社会を奨励することを目指し、スポーツを人類の調和のとれた発展に役立てるもの」でなければならない。
 然し、悲しいかな今日の勝利至上主義に毒された競技スポーツでは最早人類の調和のとれた発展に寄与することは不可能だ。
 紀元前8世紀、エリスのイフイトス王がデルフィーの神のお告げによって、都市国家間の争いを無くす為の一手段として採用した スポーツがお互いに技を競い合う競技スポーツとなって世界の平和とは無関係になった以上、 IOCは競技スポーツではない今迄とはまったく異なったオリンピックの企画を立てる必要がある。

今や世界は各地で紛争が激化し、テロの脅威にさらされている。又、宗教への考え方や主義主張の違いで罪もない人々が無差別に命を奪われ、 300万人を超す戦争犠牲者を出した20世紀の二度にわたる大戦に打ちのめされ、 安定と共存を求めたはずの国際社会で再び国家のエゴが強まりつつある。
 米国のトランプ現象や、英国の欧州連合離脱の背後に排他的な「自国第一主義」が見てとれる。
 国連安全保障理事会による国際平和の理想は揺らいでいる。
 崇高な理念のもとに結成されたIOCは金儲け主義に徹し、ロシアに対する世界反ドーピング機関(WADA)の判定を覆し、 世界平和実現のために設けられたはずのIOCは難民選手団を結成し、一般大衆の御機嫌とりという姑息な手段に出た、 難民を無くすのがIOCの役目のはずだ。いかなる理由があろうとも、戦争は罪悪だ。
 世界の平和を願う祭典はオリンピックだけだ。いかに次回からのオリンピックがスポーツの祭典として成功しようとも、 それが世界の平和の為にならなければ近代オリンピックは成功したとは言えない。
 終戦記念日の8月15日はリオ五輪の真最中だった。終戦記念日の式典で安倍首相は、尊い犠牲の上に私達が享受する平和と繁栄があることを 片時たりとも忘れない。戦争の惨禍を決して繰り返さない。この誓いを貫き歴史と謙虚に向き合い、 世界の平和と繁栄に貢献する、と述べた。

その日本が開催するオリンピックなのだ。
 日本は今や、消費税増税を先送りしなければならぬ程経済は悪化し、更に少子高齢化社会に向けて保育、教育、福祉、介護、貧困格差等々 問題は山積している。この様な情勢の下で利権の亡者達によって建設される国際競技場や選手村を始め各種競技場を新設する余裕は無いはずだ、 僅か17日間のスポーツイベントの為に3兆円もの莫大な資金の投入は断じて許すわけにはいかない。
 最優先すべきは東日本大震災や熊本地震の復興支援、地方創生である。
 福島の惨状は「アンダーコントロール」など、とんでもない、震災5年を経ても、まだ復興はままならない。
 東京オリンピックを「世界平和の祭典」として成功さすべく、安倍首相は諸外国のホスト役として、 戦争と平和を体験した日本及び日本人が国際社会に平和国家として貢献している姿を全世界の人達に示す絶好の機会が この東京オリンピックなのだ。

一般にはあまりり知らされていないがクーベルタン男爵が1912年のストックホルム大会からスポーツとは別に世界中の人々が何の抵抗もなく 受け入れることのできる建築、彫刻、絵画、音楽、そして文学に携わる世界一流の人達によるオリンピックが開催されていたのだマスコミは、 この新しく加わった5種目は本来、日本の日展の如く顕彰制度等のように優劣をつけるものではなく、 オリンピック種目としては最適だと思われたのだが残念なことに、この企画は1948年のロンドン大会まで計10回実施されたのみで、 日本が戦後初めて参加したロンドン大会の次のヘルシンキ大会以降中止となり、この画期的企画は完全に人々の記憶から忘れ去られてしまった。
 高温多湿の下で開催される東京オリンピックは「アスリート・ファースト」に徹して、マラソン等の苛酷な競技は廃止してスポーツ種目を再検討しなおし、 勝ち負けに関係のないエキジビション大会とし、それによって選手達はプレッシャーを感じることなく伸び伸びと最高の演技を観衆に披露し、 新たに建築、彫刻、絵画、音楽、文学に世界の主な宗教を加えて東京大会を「平和の祭典元年」としてもらいたい。
 「スポーツの祭典」は世界選手権こそ真の世界一を決める唯一の大会であることを全世界のアスリート達に徹底させるべきである

最後に閉会式は従来の如く大規模な開催国の宣伝は無用、二度の核の洗礼を受けた日本が開催する「平和の祭典」 の復活で十二分にその目的は達成され、オリンピック史上、平和国家日本が開催した「平和の祭典」として永遠にその名を止めることになるだろう。
                         以 上