ドンキホーテの呟き(V)
(2016年 6月号)

 「第 18回オリンピック東京大会は、秋空にこだまするファンファーレを合図に、きょういよいよ開幕する。 全地球の各地から選ばれた若人たちが『世界は一つ』の標語のもとに結集して、これからの2週間、世界に向かって日頃の訓練の成果を問う」。
 これが今から52年前、東京オリンピックの開会式の日の毎日新聞朝刊の「オリンピック精神に帰れ」と題する社説の書き出しの文章だ。
 4年後に迫った東京大会、果たして「世界は一つ」という合言葉で紙面を飾ることができるだろうか、それはまず不可能だ。
 当時の新聞の社説は続く。
 「戦後19年、日本は敗戦の苦悩から立ち上がって、とにかくここまで国力を回復した。開催国として、ひそかな誇りとしたいのである。
 だが、このような壮大で華麗な東京大会の開幕を喜ぶ半面、我々は、 ここでもう一度近代オリンピックがもつ理想と現実の姿に目を注いでみなければならない。
 東京大会もまた困難ないくつかの問題を抱えているからである。

その一つは、いうまでもなくオリンピックと政治の問題である。周知のようにオリンピック憲章は、この点について原則を明確に規定しているにもかかわらず、 近年は人種、宗教、政治などの複雑な要素が混入し、オリンピックは国の威信のまたとない宣伝の場とさえなっている。
 競技場でごく自然に起こる国家的な誇りや国民感情のはとばしりは当然としても、その域を超えて競技を通して国力の誇示が行われている。
 勝つことは国の名誉であるには違いないが、それかといってナショナリズムが、 スポーツを引きずり回すという傾向はオリンピック憲章の根本原則にもとるものとして重大である
 IOCはスポーツの理解者だけが集まる個人的な国際社交クラブの性格を持ち、それが身上とされてきた。 こういう組織だからこそ、スポーツ以外の要素の介入も防げ、憲章の精神が維持できるのだ
 我々は、先にオリンピックを政治の攻撃から守る一つの方法として、表形式における国旗と国歌をやめてはどうか、と提案した
 この提案はこと新しいものではなく、昨年(昭和38年)の西独の総会でも議論されたが、 規約改正に必要な三分の二の賛成を得ることができなかった。」

オリンピックが抱えるもう一つの課題は、「いよいよ危機に瀕しつつあるアマチュアリズムをどう守るか、 ということである」とオリンピック憲章に定められたアマ規定を問題視している。
 然し、前回の東京オリンピックより約半世紀を経た今日、かつてのアマチュアリズムは、勝利至上主義と国威発揚の旗印のもと、 完全に消滅してしまった。
 そして社説の最後は「「たしかにオリンピックは今重大な岐路に立っている。そのことは、今度の東京大会で、一層明確化されそうな兆候もある。  しかし、われわれはもう一度初心にかえって、栄光に輝くオリンピックの理想について、世界の人々とともに考え直してみたい。 それが出来たら史上最大という東京大会はさらに一層有意義なものとなるだろう」。と締め括っている。

  52 年前の社説を今改めて読み直してみた時、半世紀も前ですら既に`「オリンピック精神に帰れ」という大見出じを掲げ、 クーベルタン男爵の理想とする「平和の祭典」から逸脱していることに警鐘を鳴らしていたことに驚きを禁じ得ない。
 オリンピックの目的は唯一つ、それは古代オリンピックもクーベルタン男爵の目差した近代オリンピックも「世界の平和の為の祭典」以外になく、 57年前のオリンピック当時はまだ、その理想に近づこうという努力のあとを窺い知ることが出来る。

然し、そこには未だに解決の目途も立たないシリアの内戦や北朝鮮の挑発的行動や中国の南シナ海での独善的行動等、 何となく第三次世界大戦を予測するような不気味な出来事や、ましてドーピング問題も、テロの影も、 サイバー攻撃や首都圏直下型地震を心配する気配は微塵も感じられない平和なオリンピックの姿がそこにあった。
 そして当時問題とされたオリンピックと政治の問題は、モスクワ、北京のオリンピックを経て、各国とも国威発揚と勝利至上主義に拍車がかかり、 遂に我が国では東京大会決定を機に、2年前、超党派のスポーツ議員連盟のプロジェクトチームが結成され、ズブの素人のくせに、 スポーツ界の舵取り役を従来のJOCから国家主導へと無謀な変革を行い、挙句の果てに去年10月スポーツ行政を統括する「スポーツ庁」 なるものを新設した。
 要するに政府は東京大会を控え、「金も出すが、□も出す」というわけだ。
 そして、IOCが大会組織委員会による国別メダル獲得順位表の作成を禁じているにもかかわらず、 スポーツ庁よりオリンピックでのメダル獲得を国家戦略と位置づけ、日本はメダル数で世界第3位以内という目標をスポーツ界に課した、 これは明らかなオリンピック憲章違反である。

スポーツとは何なのか、オリンピックとは一体何なのか、日本の政治家や役人達はこの際古代オリンピックの原点に立ち返って、 真剣に考え直す必要がある。
 明治初期、当時の寺小屋を廃し小学校新設に際して明治政府が学生教育の基本したものは、知育・徳育・美育(美しいものを美しいと感じる感性)であり、 その三つを満足させる為に保健体育が後から追加されたのだ。
 従って、スポーツ庁が今後学生に求めるものは、唯の体育ではなく、あくまでも保健体育でなければならず、 絶対にオリンピックが最終のゴールであってはならない。
 更に、テロの影に脅えながら、ラニーニヤ現象による異常な高温多湿の中、7月20日より開催予定の4年後のオリンピックは絶対に中止すべきだ。
 何故なら、再建に2〜30年を要すると言われる今度の熊本地震は、発生から1ヵ月経った今も終息の気配もなく、震源域は広域化しつつあり、 原発と火山の上にある日本はテロに対する免疫力は零に等しく、原発をテロに狙われたら万事休すだ。
 その上、遅々として進まぬ福島原発や東北地方の復活には、ますます多くの建設業者を必要とし、その上、オリンピックの為の諸施設の建設が加われば、 当然業者の人手不足による人件費の高騰と資材の高騰は必定、「二兎を追う者は一兎を得ず」、 どころか三兎も四兎も追っていたのでは「虻蜂捕らず」もいいところだ。

重ねて言う、このような非常事態の時に、世界平和の為の祭典ならいざ知らず、 僅か17日間の無目的な単なるスポーツイベントの為に3兆円もの莫大な資金の投入は断じて許すわけにはいかない。
 先月号にも書いた「コンコルドの誤り」を二度と繰り返してはならない。
                            以 上