ドンキホーテの呟き(U)
(2016年 5月号)

戦後70年、我が国は曲がりなりにも平和な時間が続いている。
 然し、世界に目を向けると何時どこで起きるともわからぬテロ攻撃に戦々恐々としている国々、 そしてシリアの内戦による難民問題はEU各国に波紋を広げ、常軌を逸した北朝鮮の挑発的行動や中国の南シナ海での独善的行動等々、 何となく第三次世界大戦を予測されるような不気味な出来事が多すぎる。
 それぞれの国には、それなりの言い分があるだろうが、戦争は人々の心を狂わせ此の地球を人間の住めない世界、 即ち佛の教えにある三悪(地獄・餓鬼・畜生)の世界に否応無しに引き摺り込んでしまう。
 人々は(いが)み合い、憎み合い、騙し合いそして果ては殺し合うことになる。
 4年後の世界がどのようになっているか、神ならぬ身の知るよしもないが、ひょっとするとオリンピックどころではなくなっているかも知れない。 だからこそ東京オリンピックを国威発揚の場、勝利至上主義の申し子メダル獲得競争の無意義な競技スポーツイベントにせず、 近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵の理想とした「平和の祭典」にすべきなのだ。

去年の10月号で私は「ケチのついた五輪」と題してケチの語源は複単であり不吉な前兆、不詳な出来事を表わすものだと書いた。
 新国立競技場問題に端を発し、エンブレム問題、そしてまさかの聖火台検討漏れ、更に未だに未解決のままの灼熱と高湿度対策、 ドーピングやサイバー攻撃への対応策と益々エスカレートするテロヘの対策、そして近い将来かなりの確率で起り得るマグニチュード7級の首都圏直下型地震等々、 不安材料は数え上げればきりがない。
 そしてこれらに対応するには想像を絶する莫大な費用が必要だ。その上国立競技場をはじめ未だに未着工の各種競技施設、 一例を挙げると選手村の建設だけでも3,000億円以上かかるという。

森会長は「当初の3倍、最終的には2兆円を超すだろう」と言い、都知事は「大まかに3兆円は必要だ」と人の税金だと思って無責任な発言を繰り返す。
 1976年以降の夏季リンピックは平均して252%の予算超過という事例を踏まえてか大会組織委員会は馬術競技施設の建設費用を総て日本中央競馬会 で負担しろと言ってきた。然し競馬と馬術とは全く無関係で東京オリンピックの為に日本中央競馬会が馬術競技場を建設する義理は無い。
 唯、ひょっとすると競馬会なら馬事公苑の障碍飛越と馬場馬術の競技場も、海の森クロスカントリーコースも総て冷房設備を設置してくれるかも知れない。 何故なら、競走馬も馬術の馬も同じ動物で、温度35〜40度、湿度70〜80%での競馬はまず中止にすると思われるからだ。
 去年末の国の借金は1060兆円、そして今年の国家予算は96.7兆円に決まった。私が大学卒業した1951年の国家予算は1兆円だったと記憶している。
 4年は瞬く間に過ぎてゆく、そして恐らく東京オリンピックは様々な危険を孕みながら総てが不充分、不完全な見切り発車になり運営面・競技面に於いて 史上最悪のオリンピックの烙印を押されることになるだろう。

 2011 年の東日本大震災に対しても、やるべきことが多く残っているはずなのに何故「世界平和の為の祭典」ならいざ知らず 僅か17日間の唯の競技スポーツイベントの為にこれ程の資金を浪費するのか、まったく理解に苦しむ。
 前回の東京オリンピックでは道路等のインフラ建設の財源として世界銀行からの借金返済に30年間を要したと聞く。
 短期的にみると開催のための莫大なコストは大会でもたらされる些細な収入で埋め合わすのは絶対に不可能だ。 参考的に付け加えると1968年メキシコ大会当時のテレビ放映料の980万ドルは44年後のロンドンでは2600万ドルと約2.6倍になってはいるが メキシコ大会では放映料の96%が大会組織委員会の収入になっていたものが40年後の北京大会では半額以下の49%しか大会組織員会に入らず 51%は国際オリンピック委員会の懐に入っている。 2020年の東京では一体何%大会組織委員会に入るのか一般庶民には知らされていない。
 オリンピックの開催は経済発展を後押しするという毎回繰り返される主張には実証的な裏付けはまったくない。
 その上、大会最大の遺産と言えば建設に何千億円もかかった各種競技施設や選手村等の関連施設だが、 それらは使用用途のないスタジアムやその関連施設ばかりで、その年間の維持費には何十億円もかかる正真正銘の道楽息子なのだ。
 国際オリンピック委員会は常に魅力的な言葉で目標を語り、人権や持続可能性や雇用創出や健康的なライフスタイルや経済的発展を説くが、 残念ながら現実はそんなに甘い言葉通りにはいかないことをこれまでのオリンピックは如実に示している。

行動経済学に「コンコルドの誤り」という言葉がある。
 超音速旅客機コンコルドの開発は、途中で採算割れが予測出来だのにそれまでの投資が莫大だった関係もあって 事業を継続して赤字を拡大させ遂に墜落事故という大きな犠牲を出すことになった。
 要するに今迄投じた費用が無駄になるのを惜しんで撤退できず損失を膨らませる不合理な行動を「コンコルドの誤り」というのだ。
 馬券等の賭け事にのめり込んだ事のある人には耳の痛い格言だ。
 一度失ったお金は返ってこない。無駄と分かったらすぐにやめるのが合理的なのだ。
 ところが、やめるとそこで損失が確定するから投下したお金や時間が大きいほど引き際の決断は難しくなり、 そのうちに事態が好転するという根拠のない希望にすがって先送りするのは弱い人間の (さが)なのだ。

 「百 害あって一利なし」の真夏の東京オリンピックは即刻辞退すべきだがその前に幸か不幸か世界有数の犯罪多発国家ブラジルのリオデジャネイロでは 国民の大半が経済は疲弊し物価高と失業率の上昇に苦しみ、オリンピック開催に対して批判的で大規模なデモが発生、 その上政治家の汚職疑惑まで現れ、小頭症の恐怖から観光客は激減し、 スポーツ大臣と観光大臣が相次いで辞職する等東京オリンピック中止の為のまたとない口実をつくってくれそうな気がする。
 実は今回は、52年前、1964年10月10日、東京オリンピック開催当日の毎日新聞の社説を紹介して当時の世論がまだ「世界平和の祭典」 の実現を夢見たクーベルタン男爵の理想に近かったことを書く予定だったが残念ながら誌面の都合でそれは次号でご紹介させて頂くことにする。
 (参考−A・ジンバリスト著、オリンピック経済幻想論)
                            以 上