ドンキホーテの呟き(T)
(2016年 4月号)

今年1月末、毎日新聞の朝刊に論説委員・落合博氏のドーピング(禁止薬物使用)の記事が掲載された。
 薬物とどう向き合ったらいいのか、アスリートの意見が聞きたい、とあった。
 何故ドーピングは無くならないのか、アスリートの健康だけでなく、スポーツの公正性や公平性が損なわれるという理由に加えて 最近ではインテグリティー(高潔性)の保護が強調されている。
 然し、主に国威発揚の手段として自社ブランドのイメージを上げるためにスポーツは有効だと捉えている国がある以上、 スポーツ界からドーピングを無くすることは不可能だ。
 国際陸運がその対策として、いくら予算を計上しても、その裏をかくための予算も確実に増加してゆく、まさに「いたちごっこ」なのだ。

新聞のコラムにドーピングについての意見が聞きたいとあったので、2003年8月以来書き続けている「馬耳東風」の記事のコピーを数枚郵送したところ 数日して落合氏より一度会いたいとの電話が入り日時を決めて約2時間程話しをすることが出来た。
 その時の事を落合氏は2月11日の毎日新聞に「ドンキホーテ」と題して書いている。
 即ち、私の意見として、オリンピックの目的は、あくまで世界平和の確立であり、ドーピングや八百長等を誘発する勝利至上主義を廃絶するために 国際オリンピック委員会(IOC)は何故メダルを廃止することを検討しないのか。
 そして最後に巨大な風車に一人で立ち向かい、地面に投げ出される年老いた男、ドンキホーテを自認する西村さんの姿は悲しく、辛い、 だが目をそらすことは出来ない、と。又、先に送った「馬耳東風」を読まれていた落合氏は私の為に、今から57年前、 1959年5月28日の東京オリンピックが決定した際の毎日新聞朝刊の記事に加え、開会式(10月10日)及び閉幕式(10月25日)の オリンピック関連記事のコピーをわざわざ拡大して持ってこられた。
 そこで今回はその57年前の新聞記事の中から、まさに「我が意をえたり」の記事の一部を紹介しようと思う。

まず、オリンピック決定の翌日の毎日新聞の朝刊には、「東京オリンピックは拍子抜けするほどあっさりと決まった。 決まった以上、何とか立派にやってのけねばならない。 競技施設・宿泊・交通などの受入態勢等可能な範囲で全力を尽くす、この心構えが必要だ。 無理な背伸びは禁物である。日本でやる大会には、一本でも多く日章旗を上げたい気持はもっともだ。 だがそのために、国費で選手を養成しろだの、有力会社に抱えさせろといった議論はどうかと思う。 勝ちさえすればいいと考えているのだろうか。オリンピックの根幹であるアマチュア精神を、これほど汚すものはない。 選ばれた者だけを極端に伸ばす方法はスポーツ普及振興をかえって阻害する。オリンピックは参加することにこそ意義がある。 この際この言葉を、もう一度よくかみしめておきたい。 参加するからには勝たねばならぬなんていうこじつけは、オリンピックの精神をまったくはき違えたものと知るべきである。 勝つことよりも、どうしたら参加国に満足してもらえるのかの方がよほど大切である。 それが主催国としての第一の感心事でなければならない」。

以上が前回の東京オリンピック決定の時の記事で少なくともこの時点では近代オリンピックの創始者・クーベルタン男爵の 「オリンピックを真の平和の祭典」にしよう、この大会に選ばれて参加する者達は世界平和に貢献するのだという誇りをもって 参加することに意義を見出すべきとの思想は立派に生きていたのだ。

然るに、今度のオリンピックはどうだ。
 1.金メダル獲得数で世界第3位(30〜33個)とする。
 2.全28競技の総てで入賞を果たす。
 この二つの目標を掲げ、更に橋本聖子選手強化本部長は「東京オリンピックを成功に導くのは我々の責務であり、 メダル数が目標に達しなければ、如何に良いスポーツ環境が整備されようとも成功とは言えない」とメダル至上主義を真っ向から振りかぎした。
 然し、メダル数を比較してもスポーツの普及や国民の健康度合を測る指標にはならない。
 何故なら、人口も違うし、普及している競技も違うからだ。
 その上、体重別に階級の分かれる柔道やレスリングなら多数のメダル獲得も可能だが、サッカーやバレーのような団体種目ではそうはいかない。
 個々の選手の努力がメダルに結びつくのは喜ばしいが、それを国・地域ごとに積み上げて序列化するのは根拠もなく優劣をつける行為にほかならない。
 従ってオリンピック憲章では、国際オリンピック委員会(IOC)と大会組織委員会による国別のメダル順位表の作成を禁じている。
 残念ながら日本オリンピック委員会(JOC)や一部幹部の発言はオリンピック精神に背くものと云わざるを得ない。

スポーツを通じて国の存在感を高めようとする手法を否定はしない。前回のオリンピックは、戦後復興を象徴する国家プロジェクトとして世界に発進された。
 二度目の東京オリンピックを控えて昨年10月、スポーツ庁が発足したが過剰なメダル至上主義や国威発揚、 インフラ整備の手段としてのスポーツといった段階とは何としても一線を画すべきだ。
 世界各地で紛争の絶えない今日、そして広島と長崎で一瞬にして約21万人の善良な何の罪もない市民が殺された日本で開催される 2020年の東京オリンピック、何としても「世界平和の為の祭典」としたいものだ。

それでは次回は今から52年前、前回の東京オリンピック開催当日の毎日新聞の社説“オリンピック精神に帰れ”の内容。
 1.オリンピックに政治の介入は許せぬ。
 2.表形式に於ける国歌斉唱と国旗掲揚をやめてはどうか。
 3.アマチュアリズムを貫け。
 等について、そして閉幕式の社説“オリンピックの成功を喜ぶ”を併せて紹介するとしよう。
 ドンキホーテを自認し、巨大な風車に一人立ち向かう老人の夢から目をそらすことはできないと書いていただいた上、 57年前の毎日新聞の記事に私は今迄になく勇気をもらった。
 ひょっとして、このドンキホーテ、巨大な風車に勝つことが出来るかも知れない、と。
 (影の声=そこがドンキホーテなんだよ)
 (毎日新聞の記事一部引用)
                         以 上