今年は遊戯三昧(無門関)で行きたいと思います、と今年の年賀状に私は書いた。
一般的に考えると遊戯は読んで字の如く遊び戯れることであり三昧は心を人事に集中して乱さない事、熱中する事となる。
その為、正月に会った友人から「優雅でいいね」と羨ましがられてしまった。
然し、無門関でいう処の遊戯三昧は少々意味が違う。
宗の無門慧開か、古来からの公案(禅宗で修業者に悟りを開かせるために考えさせる試験問題)48則を選び評釈した無門関という書物は
「無」の境地を明らかにし禅宗で非常に重んぜられたもので、その無門関の中に出てくる遊戯三昧と「「生死岸頭に於いて大自在を得、
六道(衆生が善悪の業によっておもむく六つの迷界
=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)四生
(生き物をその生まれ方から四種類に分けたもの=胎生・卵生・湿処で自然発生する湿生・化生)
の中に向って遊戯三昧せん」というものである。
要するに私のように会社の仕事をしながら乗馬の調教の事を考えたり、反対に馬に乗りながら会社の資金繰りが気になったり、
兎角人間という生き物は不徹底の中でその人生を無駄に過ごしているものだ。
私は今年で86歳になるが、これからの残りの人生、どの様な人生を歩むことになるのか自分でもわからない。
それどころか自分の意志とは全く逆の方向に行くかも知れない、だからどこへ行こうと今いる処に
徹底して自己を磨くしかないということになる。
前もって計算してみて乱その通りにいく人生なんて一つもない、妄想を捨てて
(莫妄想=碧厳録)今の生になりきることで、
これこそが遊戯三昧なのだと説いている。
この様に「遊ぶ」という行為は昔、楢崎通元老師がいみじくも「なすことの一つ一つが楽しくて命がけなり遊ぶ子供ら」と詠んだように
4〜5歳の子供達にとって遊ぶという行為は人間を形成するうえで最良の手段であり、子供達個人個人がそれぞれの自己の内部にもっているものを
自由に外部に向かって表現し発散させるもので、それは純粋な精神的且つ肉体的表現そのものなのだ。
従って、遊ぶという行為はそれ自体喜びであり自由であり満足でありそして命がけなのだ。
さらにその行為は子供自身の心象や興味を満足させようとその全能力をふりしぼって真剣に、まさしく命がけで自由な運動、
自由な活動を示すものでその行為自体は誰に要求されたものでも又強制されたものでもない、それは自己満足以外の何ものでもないのだ。
従ってその行為は傍から見ていても何とも微笑ましく見る人達にまで喜びと心の安らぎを与えてくれる。
子供の遊び疲れて眠る姿はまさしく平和そのものであり子供の最も美しい姿だと思う。
出来得れば私も遊戯三昧の来そんな人生を終わりたいと思う。
一方、この遊びの行為こそが「スポーツ」の本来の姿だということも私はこれまで幾度となく書いてきた。
即ち、スポーツの語源はラテン語から来ており「総てを忘れて熱中する」という意味で相手に勝つとか負けたとかまた
メダルを獲得した等というそんなケチなものではなかったのだ。
スポーツとは近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵の「人生で最も重要なことは、勝利者であるということではなく、
その人が努力したかどうかである」という如くスポーツの目的は唯一、ベストを尽くすことであり、
優勝やメダルはベストを尽くした結果にすぎない。
ましてマスコミに洗脳されて「観客を喜ばせたい」等と大道芸人の如き発言は見当違いも甚だしい。
また、遊ぶということについて古代インドでは人生を四つに分ける思想がある。
1.学生期−青春−1才〜30才−人生の何たるかを学ぶ時期
2.家住期−朱夏−31才〜60才−仕事に精を出す時期
3.林住期−白秋−61才〜90才−己の人生を振り返る時期
4.遊行期−玄冬−91才〜120才−人生の締め括り
遊行期は死への道行きを模索する時期であり唯自然にまかせて老いるのではなく尽きない好奇心と未知の世界へ向かって
触手を伸ばす生命の活動でなければならない。
鎌倉時代、浄土教の流れをくみ、寺を持たず家庭も持たず、ひたすら念仏の教えを庶民に説き諸国放浪のうちにその生涯を終えた
遊行上人といわれた一遍上人の生き方が頭に浮かぶ。
終りに「青年とは齢の若さを指すのではない精神の溌剌さをいうのである」と詠んだ米国の詩人サミュエル・ウルマンの私の好きな
もう一つの詩をご紹介しよう。
「私は茨のない道を求めない
悲しみが消えようとも求めない
日のあたる毎日も求めない
夏の海も求めない
輝く陽光と
永遠の昼のみでは
大地の緑は
しぼみ衰える
涙の水がなければ
歳月を通じて
心の奥底は
希望の蕾を閉じる
人生のどんなところでも
気をつけて探せば
豊かな収穫をもたらす」
余生は「預生」とも書く、仏様から預かった生命には利子をつける必要があり「与生は御先組様から与えられた貴重な生命」なのだ。
その与生を精一杯燃焼させて「誉生」にしたいものだ。
けれど誉生は決して他人から栄誉を与えてもらおう等という卑しい欲ではない、
自分に誇れる人生を最後まで生きたいと願うものでなければならない。
余生は決して余った人生ではない。
人事を尽くして天命を待つのはやめよう。
人事を尽くすのが天命なのだと思う。
さあ、これからの人生大いに遊ぶとしよう。
付 記
現代の子供達の遊びは私か書いた全身全霊を使っての遊びではなく、IT機器の発達により1日中ゲームソフト等に取り付かれ
疲れ果てて眠る姿は果たして安らいで美しいだろうか。
残念なことに今の私にはその経験がない。
以 上