私の古い友人で、小学校の校長を長年務めた男が以前「水辺の馬」という本を出版した。
その本のはじめに昭和50年前半の小学校の学習指導要領の作成にあたって、自主的学習を支える新しい指導法として
「水辺の馬」を象徴とすることにしたと書いている。
「水辺の馬」とは、馬に水を飲ませようと水辺迄つれて行くのは容易だが、水を飲ませるのはなかなか難しく馬が水を飲む飲まないは
詰まるところ馬の自主性にまかせるより仕方がないというところから子供達の自主性を育てるという意味で
「水辺の馬」を指導の象徴にしたというのだ。
然し、「水辺の馬」では水を飲みたがらない馬に水を飲もうという気を起こさせるというより、水を飲まない馬(やる気のない子供)は
馬の自主性に任せて置き去りにするしかないというように解釈されかねないと思うのだが、当時の学習指導要項では自主的学習を基本として
「水辺の馬」を図案化し、あらゆる機会にそれを登場させ、全教室に掲示し学校から配布される殆どの印刷物に図案化した「水辺の馬」が使われることとなり、
職員と子供達に自主性が自覚され、浸透していったと書いている。
馬と付き合って70有余年、馬乗りは乗馬の後、必ず馬がどのくらい水を飲むか、馬の喉に手を当てて馬が何回「ゴックン、ゴックン」
と水を飲んだか調べるのが常識になっている。
そして水飲みの悪い馬には、小さめの水桶に少量の砂糖を入れて極く薄い砂糖水をつくり、それを手の平ですくって、
そっと馬の口先を湿してやれば馬は美味しそうに飲んでくれる。私はその少量の砂糖水がプロの業だと思うのだが近頃の人間の子供は馬のように
そう簡単にはいかないのかもしれない。
その上、私流に解釈すると昔のような純粋さを失い複雑な感情を持つ現代っ子の指導法に自主的学習習慣を身につけさせようとする意図の一つには、
下衆の勘繰りかも知れないが今日の教師があまりにも忙しすぎて子供達の面倒が見切れず、子供一人ひとりの問題が見えにくく、又、
かりに見えたとしても、その子供にかヽわり合う時間が持てないのが現状らしい。
即ち、翌日の授業計画、会議、部活動の世話、校長への報告書の作成、その他にも国からの調査への回答や保護者、地域からの要望や苦情への対応等々、
わけても子供達の躾教育責任迄教師の仕事と勘違いしている不心得なモンスター・ペアレンツとの対応等は、さぞ大変だろうと同情する。
どうやら保護者にとって教員はサービス業だと認識しているのだろう。
そのような事情もあってか、いじめ自殺事件のニュースの中で岩手県の校長は「学校をマネージメントする立場にある者として云々」と発言していたが、
昨今の校長は教育者である前にマネージャーであったとは知らなかった。
どうやら校長は企業のCEO(最高経営責任者)として危機管理を十分に、コストパフォーマンスを考え、
学校を効率よく円滑に運営することが主たる業務で、学校の教員達のトップとして児童の教育、心と身体の健全育成は二の次にせざるを得ない
ということらしい。
又、聞くところによると、新規に教員になると生徒や保護者とのトラブルに備えて強制的に高額な保険に加入させられるというし、
教員の休職や自殺も年々増加しているという。
そのような実情を知らされている学生達は敢えて教員になりたいと思うだろうか。
おそらく教員の数は減少し、その質の低下は否定出来ない。
最近の痛ましい事件がニュース等で報道される度に、人道的作風で知られる山本有三の小説「路傍の石」の主人公、
愛川吾一少年と次野先生の会話を思い出す。
中学校に進学出来ないかも知れないという絶望感も手伝って、友達との言葉の行きがかりから汽車の来る鉄橋にぶらさがり、
危うく一命を取り留めた吾一少年に対して、次野先生は、「人生は死ぬことじゃない。生きることだ。これからのものは、何よりも生きなくってはいけない。
自分自身を生かさなくってはいけない。たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、本当にかがやかしださなかったら、人間、
うまれてきたかひがないぢゃないか。」「わかったか、愛川。先生はおまへに見どころがあると思へばこそ、こんなにいってゐるのだ。
おまへは自分の名にかけ、(吾一=われはこの世にひとりなりの意=筆者加筆)是非とも自分を生かさなくってはならない。
いヽか、この言葉を忘れるんぢゃないぞ。と諄諄と説いて聞かせる。
更に、この小説では学校を馘首された次野先生は吾一に「学校ってところは、教科書を教へるところなんだそうだ。教科書以外のことをしゃべるやつは、
教師にはしておけんとよ。」「教科書を詰め込むところ、それが学校だと思ってゐるんだ。そんなもの、いくら詰め込んだって試験が済めば、
みんな忘れてしまふ。学校ってところは、おほかた、忘れることを教へるところなんだらう。」「忘れないものを説くことが、なぜ、
いけないんだ、教科書なんてものは、読めばわかる。字句の解釈だけなら、参考書だって、まに合うんだ。
学校ってものは、からだとからだのぶっつかり合ふところだ。先生のたましひと生徒のだましひのふれ合ふ道場だ。それではじめて、
生徒は何ものかを体得するのだ。一生忘れないものを身につけるのだ。そうでない学校なんか、学校ぢやない。人間のはきだめだ。」と。
(昭和16年発行の初版本より)
少年よ大志を抱け。少年の将来に夢と希望を与えるのが教師の役目、教職は天職。子供達の人間形成上最も重要な役割を担う教師は子供達に
常に尊敬されるべき存在でなければならない。
その教師になり手がなく教師の質が落ちていいのか。
文部科学省は今年7月、特別の教科(道徳)の教科書の検定基準として「教材を読む道徳」)から「考え議論する道徳」への転換を目指すという。
然し、道徳には客観的な物差しがなく人によって物の見方が変わるものであり、そこに「人の心」を扱う道徳の教科書づくりの
むづかしさがあるという。
更に、道徳を点数化することで悪くすると「考え議論する道徳」のはずが「どうすれば高い点がっくか、正解をうかがい合わせる道徳」
になりかねないと宣う。
そんなもの道徳とはいわない。次元の低さに呆れるばかりだ。
第一、道徳心は採点すべきものではないし採点出来るものでもない。
お膝元の文科省がこんな事では日本の道徳教育の未来は無い。
先々月号で私は戦前の教育勅語の一節を引用し、学校教育では「ならぬものは、ならぬ」の会津魂を学生達の心の中にたたき込む必要があると書いた。
此の世の中には絶対にならぬものがあるのだ、道徳教育に理屈も糸瓜も無い。
「子貢問うて曰く、
一言にして以って身を終るまで之を行うべき物有りや。
子曰く其れ『恕』か、己の欲せざる所、
人に施すこと勿れ。」
文部科学省の役人達へ次野先生の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
以 上