平和の祭典
(2015年 8月号)

うだるような暑さの中、飾り棚に白い布を掛けその上にラジオを(うやうや)しく載せて 聞いた玉音放送。
 あれから早や70年の歳月が流れた。
 8月15日は終戦記念日となってはいるが、正確には敗戦の日だ。
 70年前のあの日、一億玉砕を叫びつつ8月6日と9日に広島と長崎に原爆を投下され、その上、日ソ不可侵条約を一方的に破棄した旧ソ連軍の 寝耳に水の進行を受け、刀折れ矢尽きて降伏したのだ。
 この戦争による犠牲者は日本人だけで310万人以上とされている。
 敗戦の年の4月3日の夜、突然鼓膜の破れるような音とともに3メートル程の深さの防空壕の壁が激しく震動して今にも両側の壁に 押しつぶされるのではないかと慌てて地上に駆け上がった。
 この日の空襲は爆弾によるもので障子紙を細長く切って縦横十文字に目張りした我が家のガラスは大半が吹き飛ばされて、 町の数ヵ所から火の手があがっか。

幸にも家は類焼を免れたが、その夜の爆撃による死者は13名で、家の南側に面した庭の前の200坪程が病院の裏庭になっていた為、 数人の死骸が運び込まれてきたのを中学生だった私は低い垣根越しにボンヤリと見ていた。
 戦争はまさに人間を人間でなくする不条理であり、命の尊厳を踏みにじる狂気であり、戦争はどのように始められようとも国家と 国民にむごたらしい傷と負の遺産をもたらすものだ。
 過激派組織イスラム国や第二次世界大戦以降最大と言われるシリアの人道危機のニュース等を聞くにつけ、 二度とこのような争いはしてはならないとつくづく思う。
 宮沢賢治ではないが、この地球上の総ての人達が、あらゆる機会を捉え、あらゆる知恵を絞って世界中の人達が平和に暮らせるように努力すべきだ、 それが人類の究極の願いのはずである。

 「願 生」という言葉がある、私達が生きるということは一つの願いをもって生きることであり、その願いは人と人が殺し合うようなことだけは 止めようという願いであるべきだ。
 文明とは、電灯のつくことではない、原子爆弾を製造することでもない、文明とは人を殺さぬことであり物を壊さぬことであり 戦争をしないことであり相互に親しむことであり相互に敬うことである。
 人類を平和にする為の宗教も、似非(えせ)宗教は他を否定し 強がろうとする。強くもないのに強がるから、ぶったり蹴ったりしたくなるのだ。
 教育も同じことで力量不足な指導者は大声で怒鳴ったり脅したり、力づくで押さえっけるのが教育だと勘違いして、教育とは 「争わせて競わせる」ことが「意欲づけ」につながると思い込み、勝つことだけが幸せなのだと教え込む。
 この勝利至上主義こそが戦争の原点なのだ。
 そして、スポーツの世界に於いてはその傾向が特に顕著に現れている。

際オリンピック委員会は大宗教団体でなければならない。
 オリンピック教の本尊は「平和」であり「フェアプレー」である。

 これは世界共通の理念のはずだ。
 キリスト教もイスラム教も仏教も世界宗教ではない。
 然し、オリンピックは平和を信奉する地球上の人々の願いの集まる宗教である。
 「人類にとって最大の希望はオリンピックが存在することだ、オリンピックこそが史上最大の平和運動である」これは五輪の哲人と言われた 大島鎌吉の言葉だ。
 古代オリンピックは紀元前8世紀、古代ギリシヤで都市国家間の紛争を無くす為、平和の為の一手段としてスポーツを採用したにすぎず、 オリンピックの目的はあくまで平和の実現であり、スポーツはその為の一手段にすぎない。

スポーツの語源は「遊び」であり、総てを忘れて熱中することである。決してお互いの技を競い合う「競技」であってはならない。
 然し、スポーツ、イコール競技と勘違いしたスポーツ関係者やマスコミは技を競い合う結果として勝利至上主義に走るあまり、 さまざまな弊害をもたらした。
 人種差別、ドーピング、違法賭博、組織統合の欠如等はスポーツの価値を損い、不正行為や八百長は目にあまるものがある。
 従って国際オリンピック委員会や国際競技団体は近年「インテグリティ(高潔さ・品位)の保護」を最重要課題に掲げて不正防止に取り組んでいるが、 勝利至上主義を根絶せぬ限りその効果は望めない。

そもそもスポーツの神髄は相手に勝ったとか負けたとかメダルの色がどうの等という、そんなケチなものではなく、本来のスポーツは柳生宗矩のいう 「我人に勝つ道を知らず、我に勝つ道を知りたり」であり、1908年第4回ロンドン大会の折、セントポール寺院のペンシルペニヤ司教の 「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」であり、近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵は 「人生で最も重要なことは勝利者であるということではなくその人が努力したかどうかである」であり、 これこそが本来のオリンピックが理想とする姿なのだ。
 東京オリンピックまであと5年、その間、選手達はオリンピック出場とメダル獲得の為に涙ぐましい努力を重ね、 マスコミも又毎日のように話題にするだろう。
 然し、今迄のところ残念ながら東京オリンピックの関連記事に「平和」の文字は見当たらない。

又、アスリート達はマスコミやスポーツ関係者達によって洗脳され、オリンピックで金メダルを獲得するのが最高の名誉であると勘違いしているが、 オリンピックは断じて世界一を決める大会ではない。
 世界一を決めるのは国際競技団体が主催する世界選手権だけだということを選手をはじめマスコミも再認識すべきだ。
 世界選手権の目的は「勝つこと」だが、オリンピックは勝つことではなく世界平和の為の一大イベントに参加することだ。

自民党の大西議員のようにマスコミを懲らしめるのではなくマスコミはオリンピックの真にあるべき姿を正しく報道する義務があり、 将来有為な若者達の人生を誤らせないことを切望して止まない。     以上
 参考:「月刊ナーム」