大相撲の未来
(2015年 5月号)

1.塞判の権威

大相撲春場所も終わってみれば白鵬の6場所連続34回目の優勝でその幕を閉じた。
 今場所は横綱・鶴竜の休場があったからまだ多少は救われたものの、日本人力士の弱さだけが目立つ場所で、モンゴルカ士照ノ冨士の活躍がなければ 本当につまらない千秋楽になっていたと思う。
 芝田山親方(元横綱天乃国)は日本人力士の不甲斐無さを恥ずかしいとも思わず無神経にも白鵬の13日目優勝を阻んだ照ノ富士にMVP(最優秀力士) をあげたい。白鵬時代は今後も続くだろうし、そこに割って入るのは照ノ冨士であり逸ノ城だと (のたまう)(3月28日毎日新聞時評点描)。そこに日本人力士の名前は無い。
 確かに日本人3大関の成績は合計で25勝20敗と3大関とも2桁勝利はならず、このところ白鵬・日馬富士・鶴竜のモンゴル勢以外に日本人の優勝は お目にかかったことがない。

芝田山親方の言うように近い将来、照ノ冨士・逸ノ城そして玉鷲が大関となり、やがて横綱となるのは時間の問題だ。
 現在の相撲関係者が後腐(あとぐさ)れの無い外国人力士の養成に力を入れ、 日本人力士の横綱誕生を半ば諦めているようでは、横綱の土俵入りは、これからもモンゴル大の独占する処となり、三役揃い踏みで土俵の上にいる 日本人は行司だけという惨めなことになるのは必定。
 然し、審判団は従来通り恥ずかし気も無く羽織・袴で、ノコノコと審判席に納まり、自分達の勉強不足を棚にあげて「力士の判定批判はご法度」と 自分達の権威を固辞する。

白鵬は先場所13日目の同体ということで取り直しとなった稀勢ノ里戦で「ビデオを見たら、子どもが見てもわかるじゃないか、 ビデオ判定をもっとよく見ろ」と言っている。
 34回の優勝を誇る白鵬にしてみれば、今の審判部の人達は横綱・大関の経験者はごく僅か、まして優勝等には程遠い者たちばかり、 彼の目から見れば「褌担ぎ」程度にしか映っていないはずだ。
 横綱とはどういうものか、優勝するということが如何に大変なことか、経験したことのない者には想像もつくまい。
 その上、白鵬にしてみれば今日の相撲を支えているのはモンゴル人を主力とする外国人力士達ではないか、「もっとよく相撲を勉強しろ」 と文句の一つも言いたくなる。
 馬術の世界でも、国際大会で最高難度の演技を要求されるグランプリ種目競技で、グランプリの「グ」の字も理解していない程度の低い審判員に 滅茶苦茶な採点をされる不愉決さは、経験したことのない人には想像も出来まい。
 白鵬の気持ちが実によくわかる。

2.白鵬いじめ

白鵬が勝負審判の判定にケチをつけたのを根にもって、力士の審判批判は聞き流せない等と相撲界の内部で物議を醸しているが、 これらの批判は総て審判団の勉強不足と権威の無さが原因で、引かれ者の小唄と聞き流せばいい。
 然し、白鵬優勝の翌日の記者会見が一時間以上遅れたと文句をつけたり、その会見の席上、アルコールが残っていたのは不謹慎だと騒ぎ立てるのは (いささ)か筋が違う。政治家の記者会見延期や中止等は日常茶飯事だし、 謂れのない批判に耐えて掴んだ前人未到の大記録達成の夜ぐらい豪決に飲み明かしてどこが悪い、一体自分達を何様だと思っているのだ。

3.場所柄を弁えぬ応援

大阪出身の豪栄道や遠藤という贔屓力士名コールと手拍子で応援する(さま)は、 まるでサッカー場そのもの、バレーボールの国際大会で「ニッポン!ニッポン!」と大声で喚き続けるのを私はかねがね苦々しく思っていたが 場所柄を弁えぬにも程がある。
 その上、その様を中継するNHKも、まったく違和感なく同調し、相撲協会もそれに対して苦言を呈する気配も更々ない、 それこそ品格を欠く行為以外の何ものでもない。応援に後押しされて勢いづく等、スポーツマンとしても最低だ。
 元来相撲は勝者を称え敗者を(うやま)う礼節と格式を重んずる日本伝統の文化であり、 サッカーやバレーボールと一緒にする等(もっ)ての外。
 白鵬の品格を云々する前に、その様な応援は即刻禁止すべきだ。

4.汚い仕切り、醜い土俵態度

数ある格闘技の中で最も汚く醜い、そして卑怯な立ち合い。
 制限時間は幕内4分、十両3分、幕下以下2分以内と規定されており、仕切りを繰り返しながら、徐々に呼吸を合わせ、 制限時間一杯になったら最高の状態で両の拳をきっちりと土俵につけて立つべきだ。
 それなのに仕切りのうちは、だらだらと手は全く無視して唯形式的に塩を撒き散らし、いざ時間となると駆け引きによって少しでも相手より 有利に立とうと両の拳を土俵につくどころか、両の指先が辛うじて土俵の砂に触れればいいほうで、全く土俵の砂に触れなくても行司は何とも言わない。 その上、呼吸が合わないと言ってば「待った」をし、ご丁寧に「お返し待った」までするのだから手がつけられない。

相撲は手段を選ばず勝てばいいというものではない。
 相撲規定では「腰を割り両拳をはっきりと土俵につく事を原則とする」となっており、何故わざわざ「原則とする」と書き加える必要があるのか、 正々堂々と「両の拳をはっきりと土俵につく事」とすべきで、わざわざ「原則として」とした理由が分からない。
 阿吽(あうん)の呼吸が聞いて呆れる。
 又、仕切り中の塩撒きにしても、その意味すら弁えず手の平一杯に塩を盛って、天井に届けとばかりに投げあげて観客の歓心を買う仕種、 あれでは却って土俵を汚すばかりだ。
 その上、敗けた後の力士の未練がましく失礼な態度、きちんと土俵に上がり相手力士に向かって礼をすべきだが、 その事についても相撲協会は何とも言わない。
 文句をつければきりがないが、そのような仕切りや土俵上の態度を褌担ぎまでやってくれるから最早今日の大相撲に救いはない。

5.結論

今まで縷々(るる)述べたように無神経というか腑抜けというか現在の相撲関係者が強い日本人力士 の育成にも、又日本古来の礼儀作法を力士達に伝える努力を怠っている以上、大相撲の未来は無い。
 完膚なきまでに外国人力士に土俵を蹂躙される前にモンゴルに熨斗をつけて献上すべきだ。
 そして日本の相撲は興行収入は見込めないが昔の如く勧進相撲に徹することだ。
 現在のような無様(ぶざま)な相撲を続けるというなら、 相撲選手は皆を切りモンゴル相撲のスタイルにすればいい。その方がお似合いだ。
 勧進相撲なら今まで通り力士は髪を結い褌をしめて相撲を取り、行司は小刀を手挟み軍配団扇を持ち、 上下(かみしも)烏帽子(えぼし)・素襖に威儀を正して勝負を裁けばいい。
 日本の相撲の生きる途は淋しい限りだが、それしかない。
                         以 上