「人
生は決して、あらかじめ定められた、即ちきちんと出来あがった一冊の本ではない、各人がそこへ一字一字書き加えてゆくノートなのだ」。
このような事を関東大震災直後、甘粕大尉に殺害された無政府主義者の大杉栄が言っていたのを思い出す。
私のこれまでの人生を振り返った時、人生なんていうものは、何事も偶然であって、しかもまた何事も必然の様な気がしてならない。
今から25年前、或る空調機器メーカーに勤めていた時、会社のエレベータの中でかねて懇意の日本設備工業新聞社の先代社長、N氏に偶然出会った。
ちょうど退社時刻であったので、そのまま二人連れだって、とある天麩羅屋の暖簾を潜った。
お互いに飲むほどに酔うほどに二人の話題が競馬の話しになった時、彼は突然「今度我が社で月刊誌を出すことになったが、業界誌なので専門的な
記事が多く、誰か肩の凝らないエッセイを書いてくれる人を探していたが、空調設備関係には競馬の好きな人が多いから競馬に関する記事を書いてくれ
ないか、その手始めとして競馬場のパドックでの勝ち馬の見分け方等どうだろう」と切り出された。
生まれてこの方、馬のことしか知らない私としては、馬の話しなら何とかなると酔いも手伝って後先のことも考えず軽い気持ちで引き受けてしまった。
従って、今から25年前の平成2年5月号、月刊誌「コア」の第6号に「馬耳東風」として私の拙文が初めて活字となった。
因みに、その時の副題は「馬の調教・女房の調教」だった。
以来今月号まで、何と300回、一度も途切れることなく「馬耳東風」を連載して頂いている。
その間、私か成功率50%の心臓手術の際には、生きて退院出来るという保障も無く、N社長に「もうこれで終わりにしたい」と言った時、
彼はせっかく続けているのだから、短い文章でもいいから書いてみろと励まされ、病院で原稿を書いたこともあった。
又、この300回の間には当然馬の話しだけでは続かず、思いつくままに随分勝手なことも書かせて頂いた。
恐らく、新聞社では今月号で連載を打ち切りにしたいと思われたことも幾度かあったことだろう。
それを何とか今日まで黙って掲載し続けて頂いた新聞社には、本当にお礼の言葉もない。
恐らく毎月書くこの拙文は私自身の生き方を見つめ直し再発見する最高の助っ人となってくれたことは間違いない。
又、心臓手術を契機に始めた馬の彫刻も、この拙文同様、私が人生劇を演ずるうえでの小道具として私の舞台に色を添えてくれている。
その上、私の文章が活字になって多くの人に読まれると思うと否応無しに勉強する羽目になり、それが少しずつ蓄積されて最近流行の生涯学習の
一学科になってくれればと窃かに期待している。
即ち、生涯学習というものは書物を読んだり講演を聞いたり、又は美術館で芸術鑑賞をして心の中に豊かさを充電するのもいいが、
私はやはり充電したら何かの方法でスパークさせて初めてその充電が生きるのだと思う。
要するに、充電した知識を文章にしたり、人に話したりしてスパークさせて初めてその学習が意義あるものとなるのだ。
馬術にしても、馬の体の中に旺盛なる推進気勢を常に充電させつつ、それを一歩一歩スパークさせて前進するところに真の
歩様の美が生まれ高得点に繋がるのだ。
私の馬の彫刻も同じ様に公募展に出品したり個展を開いて人様の御批判を仰いで(スパーク)初めて新しい構想が生まれ
創作意欲も湧いてくるというもの。
その点私に「馬耳東風」というこの上ないスパークさせる機会を与え続けて頂いた日本設備工業新聞社に誌面を借りて重ねて
心よりお礼を申し上げたい。
更にこの拙文と彫刻のスパークによって、大変に身勝手な話したが私の理想とする
「独楽の人生」に少しずつ近づいているようにも思える。
独楽は読んで字の如く独り楽しむと書く。
独楽は自分の心棒で廻っているから立っていられる。蝋燭も(心棒)芯が無ければ燃えない。
“去年、今年、貫く棒の如きもの” 虚子
そしてその心棒が少しでも揺らぐと忽ち独楽は横倒しとなってその回転を中止する。それを「独楽の舞倒れ」といって、
ひと頃よく言われた「ピンピン、コロリ」の人生に相当する。
然し、この頑固で「百万人といえども我行かん」の独楽人生も家族の者達には
頗る評判が悪い。
そこで女房や娘達に私は自分の楽しみを見付けたから世間で言う「濡れ落葉」にはならないから安心しろと胸を張ってみせた。
ところが敵も然る者、透かさず、
濡れ落葉にはならないと思うけれど貴方は私達にとって間違いなく「腐葉土」だと言い返された。
然し、家族にとって不用か不要か知らないが、腐葉土は落葉が腐って出来た土で植物や野菜の新しい生命を育む貴重な肥料なのだから、
私の理想とする独楽の生き方が過去に少しでも人様の役に立ったことがあったとしたら、大変に僣越なが
「以って銘すべし」だと思っている。
どうか皆様も頭書「大杉栄」が言ったように、人生が各人が一字一字書き加えてゆくノートだとしたら、これまでの人生で感じたことや記録に残して
おきたい事柄を自分が生きた証拠として思いつくまま「自分史」として書いてみては如何でしょう。
唯、その「自分史」は誰に読ませるのでもなく、そこに書いたことも、又書かれていないことも、それを評価してくれるのは佛様であり、
最後に自分史を読んでくれるのは佛様なのだということを意識して書く処に自分史の真の意義があるように思います。
又、指先は脳の出先機関と言います。
最近では扱い易い粘土を文房具店で幾種類も安く販売していますから、お子様やペットの犬や猫の像を創ってみるのもボケ防止になると
彫刻家仲間では話しております。
どうか皆様も御家族の嫌われ者になるのを覚悟の上で「独楽とスパークの人生」を試される事をお薦めします。
以 上