君臣、親子、夫婦の関係が緩み乱れて、仁・義・礼・智・信という人としての基本の道が廃れ絶えるとき、国は荒れ放題となる。
最近のニュースを見るにつけ、以前では考えてもいなかった事件が多発して、子々孫々に伝えたい日本人の床しい心や、美しい伝統、
風習等が薄れてゆくのを見るのは淋しい限りだ。
けれど、春の日差しの中、草の芽が吹き出てくるのを、じっと見つめていると、底知れぬ無心の命の息吹を感じ、生きているということ
「何と素晴らしいことか」と平素はどこかに忘れていたこの感情が自然と心の中に蘇ってくる。
「暑さ寒さも彼岸まで」、彼岸の入りの3月17日から、彼岸明けの3月24日まで、3月21日の春分の日を中心とした7日間が春のお彼岸だ。
太陽が真西に没するこの期間を、西方浄土があるという仏教の教えから無欲悟導の対岸の域に一番近い日とされ、死者の冥福を祈り、佛様を供養し、
家族揃ってお墓参りをするのは昔から日本に伝わる美しい風習である。
然し、お墓参りは唯、故人の冥福を祈るだけではなく「私は今、何の為に生きさせて頂いているのだろうか?」と亡き大の願いを聞く事でもあり、
それは又、佛の声を聞くことでもあるのだ。
苦しい時、悲しい時、私達は常に故人に見守られているわけで、それは恐ろしいことでもあり、又反面私達に安心感を与えてくれる。
そして、それらのことをお墓の前で感じとるのが、「お彼岸の心」なのかも知れない。
彼岸とは、云う迄もなく汚れの多い此の岸即ち「迷いの濁世」「苦悩の娑婆」
の人間世界に対し、正常な佛土を意味する。
よく人間の生活を「世渡りする」というが人の一生とは「此の岸」から「彼の岸」に渡ってゆく道中のことにすぎず、
それなら死んだら誰しも清浄な佛土に行きたいと願うのは当然の心理だ。
けれどその佛土とは一体どの様な処なのか、未だかつて、その佛土へ行って来た人は唯の一人もいない。
従って、いろいろと想像する以外にないのだ。
“山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う
あヽわれひとり訪め行きて 涙さしぐみ帰り来ぬ
山のあなたになお遠く 幸い住むと人の言う”
(カール・ブッセ)。
この詩のように私達は幸せを探し回っているけれど、その幸せの本当の顔はまったく知らないで探し回っていることになる。
お釈迦様は「自灯明・法灯明」、自分こそが最も確かなよりどころである。その自分をよりどころにせよ、と言われる。
然し、その自己は欲張りで、怒りやすく、その上迷いが多い存在であり、自己をよりどころにする為には、常に反省を怠らず、
少しでも理想の姿に近付くよう努力し続ける必要がある。
佛教で佛性というのは、総ての人間の中に潜んでいるもう一人の自分、理想の種子のようなもので、
その佛性を事ある毎に呼びさまさなければならない。
彼岸というと、考えようによっては非常に遠い処、殊に私のような凡人にはなかなか行きつく事の出来ない処のように思われるが、然し、
よく考えると、それは案外現実の生活の中で努力すれば行きつく事の出来る処なのかも知れない。
「佛道」とは、その理想に向かって日々努力する生活の事だと思い定めてみるものも大切な事のように思える。
“けふ彼岸 菩提のたねを蒔く日かな” (蕪村)
ここで言う菩提とは悟りのことだ。
お彼岸には一家揃って御先祖様のお墓参りをして、迷いを捨てて少しでも正しいと思われる生活をしようと御先祖様の前で決心するには、
もってこいの季節だ。
ひょっとすると、そう思い、そう決心したその場所が「彼岸」なのかも知れない。
日本の国土に生まれたお彼岸の行事は、日本人の心から生まれた日本の原点、日本人全体の故郷の一つなのだ。
日本人が「悟り」を「彼岸」という美しい表現にしたことを忘れることは、日本人が救いを失うことになるような気がしてならない。
以 上