善・美・義
(2015年 1月号)

未の年が明けました。
 今年の年賀状に私は「古代中国で天体の十二宮の数をかぞえる符丁であった十二支が日本に伝わり、実在の獣の名になり、干支の未が羊になった。
 その羊を組み入れた漢字には、倫理上の『善』と審美上の『美』そして武士道の支柱たる『義』がある。従って今年はこの善と美と義とを常に念頭に おいて一年を過ごしたいと思う」と書いた。
 それにしても、7回目の午年が巡ってきたと書いたのは、つい昨日のように思えてならない、末期高齢者の一年は何と短いことか。
 この一年私は一体何をしていたというのだ。
 法句経では「一日の光陰短しと(いえど)も軽んずること勿れ、 一夜を捨てるは汝の命を減ずるなり」と言う。
 「光陰如矢」光は太陽の光、陰は月の光りだ。
 「光陰可惜」。

この一年何とか悔いのない日々を送りたいと自分なりに努力したつもりだったが、何かやり残したことがあったように思えてならない。
 1日24時間は1,440分、秒にすると86,400秒になる。
 仏教での最小の時間の単位、刹那は75分の1秒、648万刹那が1日となるのだ。
 二度と戻らぬ刹那、その一刹那の時の流れが人生なのだ。
 如何に万物の霊長と自負し、自然界をも支配しようとする人間でも「時の流れ」を止めることは出来ない。
 知らず知らずのうちに生老死と変化してゆく相に人は哀れさを感じる。
 それは死を恐れ、老いの佗しさを感じるからなのだろう。
 「時」は人に差別なく平等に追ってくる。
 しかし、成長してゆくものや、未来に夢と希望を抱く人にとって「時」の流れは待ち遠しく楽しいものとなるだろう。
 「時」は受けとる人の心によって異なるものだ。
 待ってくれぬ「時」を追いかけるのではなく、未だ来ぬ「時」を待ち佗びるものでもなく、今の「ひと時」に全生命を打ち込むことが肝要なのだと つくづく思う。
 そして毎年の事ながら、これからの一年「今しかない」「今しか出来ない事」「今だから出来る事」がきっとあると思いながら一日一日を 大事にしよう。
 そして願わくば、植物が動物の吐いた炭酸ガスを吸って酸素を吐き、その酸素を動物が吸って生きるように残り少ない私の人生、 自分の生きざまが少しでも他の幸せにつながるような生き方をしたいものだ。

そのような視点で頭書の「善・美・義」を考えてみると、
 まず「善」については「諸悪莫作(しょあくまつさ)  衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)」 (七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ))人は誰でも悪いことをするなということを知っている。 又善いことをやろうということも知らない人はいない。そんなことは8歳の子供でも知っているけれど、いざ実行となると80歳の老翁でも、 なかなかできないものだと言った道林禅師の言葉が頭に浮かぶ。
 人は自分以外のものに克つことは出来ても己一人の三毒(貪瞋痴(どんしんち)=貪欲・ 瞋恚(しんい)・愚痴)の煩悩に打ち克つことは難しい。 従って煩悩を断つ努力をするよりも煩悩をうまく利他の働きに生かしていく中に己に打ち克つ人間の生き方があるのかも知れないと 除夜の鐘を聞きながらボンヤリと考えていた。Br>

次に「美」についてはこの馬事東風で幾度も書いてきたが、トルストイの「芸術とは何ぞや」(昭和7年、改造社)で、コステは「美」と「善」 と「真」の観念は天賦であると主張したと書き、又これ等の観念は吾々の心に光耀を添え美と善と真を具有する神に一致せしめる。 「美」の観念は本質の統一、組織的原素の変化及び人生の諸表現を統一せしむる秩序を包有している。(原文のまま)とも書いている。
 更に、芸術とは、あらゆる形成の建築、彫刻、絵画、音楽、詩をとおして「美」を追求する作業だが、1750年、バウムガルテンが「美学」を創始 して以来、美について実に多くの学者や思想家が挙って「美とは何か」について山のような書籍を出しているが、 この問題は今なお来解決のままだとも書いている。
 そしてロシア語で「美」を「クラソタ」というが、それは視覚を喜ばすものの意味で、従って禅の概念は美の概念を含んでいるといい、 美と善の関係について数頁を割いて縷々述べているが今回は割愛させて頂く。
 それにしても美の定義は現在に至るも尚未解決のままであり、私に言わせると元来絵画や彫刻は自己満足以外の何物でもなく、 これからも自分の主観に忠実に馬の彫刻を創り、馬の絵を画き続けようと思う。
 然し第三者からの批判、ご意見は今後の為に謙虚に受け止め、当を得たお褒めの言葉は素直に嬉しいものだ。

最後に「義」については先月号の「AKO・47」(赤穂四十七士)でも書いたが、孟子は「仁は人の安宅なり。義は人の正路なり。
 その路をすてて()らず。(かな)しいかな その心を放ちて求むるを知らず。哀しいかな人は鶏犬(けいけん)の放つことあれば、 すなわちこれを求むるを知るも、心を放つことあるも求むるを知らず」と言う。
 仁は人の身をおくべき地なり、義は人の()むべき道である(安宅正路)。
 それなのに人はその路を捨てて少しも顧みることもまた取り戻そうともしない。
 人は鶏や犬が逃げると、それを必死に追いかけるが、正しい心の逃げていくのに何とも思わない。
 要するに孟子によれば「義」とは人が失われた楽園を再び手中にする為に必ず通過しなければならない (すぐ)なる狭い道だというのだ。

さあ!、今年の目標に向かって努力しよう。
 そして今年の暮れ、除夜の鐘を聞きながら国際馬術連盟の馬場馬術競技の採点基準によって自己採点をしてみよう。 出来れば毎月末に各月毎の採点をして最後に年間成績を出してみるのも面白い。
 善・美・義の点の平均が9.2点以上なら世界選手権まず優勝、悲しいかな日本選手権なら7.5点以上で優勝確実だ。
 尚、一般的には善・美・義のかわりに、仕事・健康・家庭等として自己採点は如何なものだろう。
 蛇足ながら馬術競技での審判員の採点は、その選手の後日の進歩の為の参考資料にすぎず、その点数によって相手に勝ったとか負けた等という 吝嗇なものではない。その採点はあくまで自己改善の為に利用すべきものだ。
                        以 上