曹洞宗の禅僧、良寛は或る時、日蓮宗の信者の家でお仏壇に向かって法華経以外のお経をあげた。
驚いたその家の主人は、「和尚様そのお経はおやめ下さい」と止めに入ったという。
その時のお経が般若心経であったのか阿弥陀経であったのか定かではないが、良寛はその家が日蓮宗であることを百も承知で敢えて
法華経以外のお経をあげて、その家の主人に止められたことを後で笑いながら「良寛禅師奇話」の著書である
解良栄重に話している。
元来、宗教というものは洋の東西を問わず排他的で産地限定的なところがあるが、特に日蓮宗は戦闘的な宗旨だといわれ、他宗と折り合いを
つけたからないところがある。
そんな日蓮宗のお坊様達が敢えて宗派を超えて仏教を勉強しようと「南無の会」という会をつくって四十数年になる。
その「南無の会」が出版している宗教誌「ナーム」という月刊誌を読まれた方もおられると思うが、その月刊誌の出版元の株式会社水書坊
の発行人から今年の初め講演の依頼があった。
その名も日蓮宗の日蓮に因んで「辻説法」という。
馬術の話しや彫刻の話しなら何とかなるが、辻説法の会場は新宿の大きなお寺の講堂で聴衆は大半が仏教に何らかの関心のある中高年の
善男善女で、中には歴としたお坊様も聞きに来られる。
しかも講演時間は2時間だと言うからかなりの重労働の上、滅多な事は言えず、下手をすると、あれは辻説法ではなくて迷説法だと
言われかねない。
丁重にお断りしようかとも思ったが、今迄二十数年、毎月書いてきた拙文をまとめて、自分自身の老後の生き方についての考えをまとめて
みるのも悪くないと思い、釈迦に説法を承知の上で引き受けることにした。
然し、講演を引き受けた本当の理由は、最近身体が妙に重く食欲もなく、すぐに疲れるので馬並みに我と我が尻を鞭打っても一向に前へ
進もうという意欲が湧いてこない、そこで今回のように何月何日に難しい講演をしなければならないという宿題を自分に課せば、
恥をかきたくない一心で否応なしに勉強し腰を上げざるを得ない。要するに自分の鼻先に人参をぶら下げた方が尻を叩くより
効果があると考えたからだ。
従って、その内容は聴衆の為というよりむしろ、自分の為であり演題も偉そうに「人事を尽くすは天命なり」と日頃考えていることを
自分自身に言い聞かすように喋ることにした。
日本男性の平均健康寿命は70.42年だというが、それを14年も長く生きてみて、改めて自分の過ぎ来し方を振り返り、果たして人事を尽くして
きただろうかと考えた時、後悔があるばかりで私の様に心臓の弁をゴワテックスという化学繊維の糸で吊っている状態で、しかも7回もの手術を
経験している身体は常に爆弾を抱えてるようなもので何時何かおきても可笑しくなく、何時までにゴールに到達しようなどという悠長な生き方は
許されない。
従って、今現在歩んでいる此の一歩一歩が、人生の目的でありゴールであるという生き方以外になく、常に人事を尽くすようにしようと
自分には言い聞かせてきた。
然し、これからの一人よがりの努力が果たしてベストなのかどうか、それは神のみぞ知るだ。
それなのに人事を尽くしたつもりで天命を待っていていいのだろうか。
孔子は「十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り」と云っている。
天命とは一体何なのか、天からのインスピレーションを受け取る能力のない人には天命は理解出来ない。然し孔子は天命を知りと云う、
即ち天命とは悟りの事、真理を悟ったと云う事なのだと思う。
そして孔子の偉い処は、天命を完全に理解した上で再び民衆の中に帰って、その悟りを人々に伝え広めたところにある。
然し私の様な凡人は、いくら努力しても悟りを開くなどという自信は全くない。そこでせめて毎日毎日努力することが天の命令なのだと
勝手に解釈したと云うことである。
いずれにしても人生は途中で終わるもの。
一大事と申すは今日只今の心なり、それをおろそかにして明日
ある事なし、「只今の只に乗れ、只の人」。
私の書斎の壁には水書坊の中島氏の「今しかない」という書が掛けてある。それを毎日眺めながら今日一日を兎に角悔いのないように生きよ
うと心を新たにする。
それが「生涯学習・生涯現役・臨終停年」につながれば満足だ。
独り楽しむと書いて独楽と読む、独楽は自分の心棒で廻り続けてその中心が
狂った途端その動きを止める、それを「独楽の舞倒れ」という。
芯の無いローソクは燃えない、如何に財産があっても又学識があっても、その中に一本の芯棒が無ければそれを光にかえる事は出来ない。
「去年今年、貫く棒の如きもの」。
せっかく授かった人生、一生燃焼・一生感動・一生不悟といきたいものだ。
安岡正篤氏は「人の生涯、何事によらず、もう終わりだと思うなかれ、いまだ始めらしき始めを持たざるを思え」と言う。
これからも体の動く限りいろいろな人参を鼻先にぶらさげる事にしよう。
「人は何の為に生きるか」この問いを続けてゆく為に一人一人に与えられた年月、それこそが本当の生涯なのだと思って。
以 上