勝利至上主義の弊害 (円谷幸吉選手の死)
(2014年02月号)

ソチ冬季オリンピックの開幕とともに、6年後に迫ったオリンピック東京大会が益々熱を帯びてきた。
 日本オリンピック委員会(JOC)は昨年末、選手強化本部会を開き、
 一、金メダル獲得数で世界第3位(20〜33個)となる。
 一、全28競技の総てで入賞を果たす。
 という二つの目標を掲げた。
 更に、橋本聖子選手強化本部長は、「東京オリンピックを成功に導くのは我々の責務であり、メダル数が目標に達しなければ、如何に良いスポーツ 環境が整備されようとも成功とは言えない。どのくらいの予算があればメダルを獲得出来るか、各競技団体は速やかに検討すべし」とメダル至上 主義を真っ向に振りかぎした。
 この勝利至上主義は選手強化現場のトップ達からスポーツ本来の精神を見失わせ、メダル圏内にいる選手達には精神的な重圧となり、未熟な指導者 達の暴力行為にっながることは想像にかたくない。
 そう考えた時、私の脳裏に浮かぶのは5歳の時に患った関節炎の為、やや体を右に傾けて黙々とトラックを走る今は亡き円谷幸吉選手の姿である。

今から50年前、東京国立競技場を埋めつくした大観衆の見守るなか、全力を出し切った円谷はゴールの僅か250メートル手前でイギリスの ベイジル・ヒートリー選手に抜かれて3位となった。
 然し、国立競技場の全観衆は勿論、テレビの前で声をからした総ての人達は、彼の健闘に対し惜しみない拍手を送った。
 そして、その直後の記者会見で彼は「次のメキシコでは金メダルを獲ります」と気丈に語り、国民の皆様の面前で追い抜かれたお詫びに、 「4年後のメキシコで日の丸をメインポールに掲げるのが私の国民に対する約束なのです」と一緒に走った君原健二氏に話している。
 昭和15年(1940)福島県須賀川町に7人兄弟の末っ子として生まれた円谷は、高校卒業後、陸上自衛隊に入隊、郡山駐屯地に配属された。
 地元の須賀川高校入学と同時に始めた陸上競技は陸上自衛隊に入り、めきめきと頭角を現わし、昭和37年(1962)オリンピックに備えて開校した 自衛隊体育学校に入学することとなった。
 そして、その翌年の6月には2万メートルで2位ながら世界記録を更新、更に記録を伸ばし続けて遂に1万メートルのオリンピック代表に選ば れたがその直後、日本陸運の織田幹雄氏の薦めによってマラソンに転向、その僅か7ヵ月後の昭和39年(1964)東京オリンピックで日本陸上界に唯一 のメダルをもたらしたのだ。

然し、「次は金メダルを獲る!」その思いはメキシコが近づくにつれて想像を絶する重圧となって彼の肩にのしかかり、加えて持病の腰痛に も悩まされ、記録は伸びず、彼の気持ちは焦るばかり。その様な時、たまたま毎日マラソンに招待されて来日していた曾てのライバル、エチオピア のアベベ選手を訪ね、「貴方も国家の為に走るのですか?」と質問した。
 これは、自衛隊所属の選手としては当然の質問なのだが、
 その質問に対して彼は家族の写真を見せながら「スポーツ選手は、いつか負ける運命にある、然しその時が来ても家族がいれば生き る目標を失うことはない。家族とは良いものだ」と答えたという。
 それを聞いた円谷は温かい家庭を築くべく、当時交際のあった意中の人との結婚を決意した。
 然し、その話しを聞いた当時の体育学校長は、挙式の日取りも決まり招待状まで発送していたというのに、無謀にも「オリンピックが近いという のに一体何を考えているのだ」とその結婚を許可せず、婚約を解消させてしまった。
 益々ひどくなる腰痛、国民との約束の金メダル、そして失恋の痛みに耐えながら、それでも真面目で責任感が強く、朴訥な好青年、円谷は、何 とかして国民の期待に応えようと過度な練習に明け暮れたあまり、心身ともに疲れ切ってしまった。
 そして、メキシコ・オリンピック開催の年を迎えた正月、郷里より帰省後の1月9日、午前11時頃、東京練馬の自衛隊体育学校の宿舎で、 カミソリで頚動脈を切断、28歳のあまりにも短い生涯を終えた。

川端康成が「千万言も尽くせぬ哀切」と書いた円谷幸吉の遺書には、
 「父上様母上様三日とろろ美味しうございました。干し柿もちも美昧しうございました。
 敏雄兄姉上様おすし美昧しうございました。
 勝美兄姉上様ブドウ酒リンゴ美昧しうございました。
 巌兄姉上様しそめし南ばんづけ美味しうございました。
 喜久造兄姉上様ブドウ液養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
 幸造兄姉上様往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しうございました。
 正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、 恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。
 父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒、お許し下さい。気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し 申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」。

7人兄弟の末っ子で甘えん坊の幸吉の最後の言葉、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」。原稿用紙の文字が霞む。
 然し、無神経にも彼の自死を自衛隊体育学校では「ノイローゼによる発作的自殺」と報じたに止まった。
 当時メキシコ・オリンピック近代五種競技の一種目、馬術競技(クロスカントリー障碍飛躍)のコーチを兼ねていた私は、杉並の自衛隊体育学校の 馬場にも幾度となく通い、又、メキシコの馬術競技の行なわれるコースと同じ標高の清里にベースキャンプを設営し何日も選手達と寝食を共にした 関係で、当時の選手達と40年近く経つ今年も、娘が結婚しました、孫が出来ましたと言って写真入りの年賀状が届く。
 その様な理由で彼等の気性を良く弁えているつもりだが、彼等は円谷選手と同じように「お国の為」という意識が非常に強く、「オリンピックを楽 しみます」等という考えは毛頭ない。
 6年後の東京オリンピックで金メダル獲得数で世界第3位を目指すというが、それはオリンピック本来の目的からすると何の意味もない。
 私がこの誌面を借りて幾度となく書いたように、オリンピックは絶対に技を競い合う「競技スポーツの祭典」であってはならない。  近代オリンピックの創始者、クーベルタン男爵の目的は唯一つ、それは世界平和の為の祭典である。
 競技スポーツで真の世界一を決めるのは1ヵ国1種目4名等という出場制限枠の無い「世界選手権」だということを選手はもとよりスポーツ関係者も マスコミもよくよく頭の中に叩ぎ込む必要がある。重ねて言う、オリンピックは断じて世界一を決めるスポーツの大会ではない
 民族紛争、宗教紛争、領土問題による紛争等々、この地球上でこれらの紛争に巻き込まれて死者の出ない日は唯の一日もない。
 せめて6年後の東京オリンピックだけは、世界平和の為の祭典だと言うことを中国や韓国をはじめ全世界の国々に堂々とアピールしてもらいたい。 オリンピック開催国として国威発揚や経済効果をその主目的とするのは本末転倒も甚だしい、そして二度と円谷選手の悲劇を繰り返してはならない。
  (筆者:2001年度馬場馬術世界ランキング82位)
  (参考:月刊誌「ナーム」平成26年1月号“日本人の死に方”)
                             以 上