濡れ衣 (馬に対する冤罪を晴らす)
(2014年01月号)

明けまして、お目出とう御座います。
 この「馬耳東風」もお陰様で24回目の正月を迎えると同時に、午年生まれの私に7回目の年男が巡ってきました。
 そこで今月は私の得意とする「馬」について書こうと思う。
 数千年の昔から、平時においても又戦時においても人間と非常に近い関わりを保ってきた馬、その馬の先祖は約5500万年前に遡ることが出来る。
 そこへいくと万物の霊長等と威張っている人類の祖先はたかだか1400万年だというから、馬は人類の約4倍も昔から此の世に生息していた勘定になる。

馬という動物は人に馴れやすく又非常に驚きやすいところから、ともに馬の字が入っているが、因みに「大漢和辞典」をひもとくと馬の付く 漢字は何と538もある。
 又、この「馬耳東風」を始めとして馬を題材にした諺や慣用句も数えあげればきりがない。
 然し、今回は特に午年ということでもあり馬にとって不名誉なものだけを選んでその汚名をすすぎたいと思う。
 まず、その筆頭にあげなければならないのが、「馬鹿」と言う言葉である。
 “バカ!”、“バカ者!”、”バカ野郎”、”バカタレ”に始まって、”馬鹿らしい”、”馬鹿にするな”、”馬鹿を見る”、“馬鹿になる”、 “馬鹿ていねい”、それに“馬鹿力”等々。
 更に諺には「馬鹿と鋏は使いよう」、「馬鹿に付ける薬はない」、「馬鹿の一つ覚え」、「馬鹿は死ななきゃなおらない」というのもあり、 馬鹿とは言わぬまでも「どこの馬の骨」等と言って蔑まれる。
 馬にしてみれば「馬鹿にするな、人間の思いあがりも甚だしい」と大いに文句の言いたいところだ。

一体この「馬鹿」という言葉はどうして生まれたのか、「バカ」は梵語の(MOHA)(慕何)、即ち暗愚、無知、痴の意味で「馬鹿」は「鹿を指し て馬となす」という中国の故事からとった、まったくの当て字なのだ
 その故事の「鹿を指して馬となす」の由来は、秦の始皇帝の死後、権力者の趙高と知恵おくれの 胡亥(こがい)王子との政権争いの際の逸話から出たもので、馬と鹿との見分けもつかない 愚か者という意味らしい。
 尚、もう一つの「バカ」の発音には、「莫迦」というものがある。
 私の大好きな芥川龍之介は、その著「侏儒の言葉」の中で馬鹿とは書かず「莫迦」という字を使っている。
 因みに「莫迦」、「莫詞」、「婆伽」は総てお釈迦様の教えをいくら聞いても理解出来ず、常に迷いの中にいる者の事を言うのだ。

次にこの「コア」で285回も連載させて頂いている「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」、「馬の耳に風」について馬の汚名を晴らそうと思う。
 即ち「馬耳東風」とは、旺文社の成語林によると唐の詩人、李白の言葉なのだが、その馬耳東風と同意語の「馬の耳に念仏」は日本産の諺で、 何とそれは厩戸皇子(聖徳太子) が言った「馬の耳に 風」から変化したものとされている。  こよなく馬を愛した厩戸皇子(うまやとのみこ)が愛馬「黒駒」にまたがって、のんびりと 春の野を散策していた時の事、フッと気がっくと黒駒は心地よい春に耽るどころか大切なご主人様にもしもの事があってはと常に油断なく周囲に 気を配りつつ歩を進めていたという。
 その事に気付いた皇子は、きっと馬は人間以上に多くの情報を収集しているに違いないと思い、情報の大切さを「馬の耳に風」という格言にして 後世に残したのだと大和古流の21世当主、友常貴仁氏が書いている。
 従って、この「馬の耳に風」という格言は一般に言われている「馬耳東風」とは、まさに正反対の意味をもつ格言だったのだ。
 かく言う私も今から24年前は「どうか私の世迷言を読み流して下さい」というつもりで「馬耳東風」としたのだが今更題名を変えるのも残念なの で読者の皆様には何卒今迄通り読み流して頂きたいと思う。

それでは何故「馬の耳に風」がまったく逆を意味する「馬耳東風」になったのかというと、この「馬の耳に風」が遣隋使か遣唐使によって大陸に伝わり、 李白が馬が心地よい東風が吹いても春を感じようとしないといとう処だけを聞きかじって詩人の 王十二(おうじゅうじ)から送られた「寒夜にひとりで酒を飲みながら物思いにふける」 という詩に対して、「世人間此皆掉頭、有如東風射馬耳」。
 浮薄な当世では何とか出世しようと王侯貴族に媚びへつらうばかりで一向に詩人のことばを聞いても馬耳東風である、然し私達詩人にとっては官 位等は無用のものだから大いに詩賦に生きようではないか、と王十二を励ましたという。
 その「馬耳東風」が、いつの頃からか日本に逆輸入され、その上「馬の耳に念仏」等という馬にとって、まったくいわれのない不名誉な格言まで 生まれてしまったのだ。
 人類が歩んできた長い歴史の過程は、常に馬と共にあった。
 もし馬がいなかったら世界の歴史は変わっていたに違いない。
 今の私達の生活では、馬は競馬揚か乗馬クラブでしか見ることが出来ない。
 日々、馬の面影を感じることも、ましてや手で触れることもできなくなってしまった、何とも淋しい限りだ。

私は今年の年賀状に“騎馬 求馬”と書いた。
 84歳になる私は、もうそろそろ自分が馬に乗っているのを忘れて他の馬を探す事の愚を悟ってもいい年令になったのに未だに悟る事の出来ない 自分への戒めとして書いてみた。
 いずれにしても午年は飛躍の年という印象が強い、消費税率アップによる駆け込み需要や2020年のオリンピックを控えて、今年は何となく良い年 になりそうな予感がする。
 今年も又将来に希望を持って頑張ることにしよう。
                           以 上