真 実 心
(2013年12月号)

陰暦の師走は一年間の締めくくりの月。  今年一年間の喜び事を思い神仏に感謝し、反省すべき処に対しては心の整理をして来るべき年の指針とする月だ。

今年10月13日のNHKスペシャル番組で「中国激動“さまよえる”人民のこころ」がテレビで放映された。
 激しい反日デモや尖閣沖に押し寄せる中国船をテレビで見慣れている私にとって、最近の中国人の道徳学習熟や信仰への渇きを報ずる この「さまよえる人民のこころ」は、文化大革命以来、最早中国には儒教の思想は存在しないものと思い込んでいた私に、今尚、孔子は 中国人の心の中に(ひそ) かに生きっづけていたのだということを気付かせてくれた。
 まさにこのテレビは私にとって一服の清涼剤となったが文化人革命以来、腐敗せる旧思想として排斥された儒教が、 最近では中国共産党の肝煎りで腐敗克服の道具として利用されているというのも何となく皮肉な話しのように思えた。

然し、奇しくもこのテレビが日本で放映された2年前の2011年10月13日に広東省仙山市で起きた2歳女児のひき逃げ事故を写した防犯カメラ の映像がテレビの画面に映し出された瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
 ひき逃げされた女の子は更に後続の単に次々とひかれて遂に死亡したのだが、その間、18人もの人がその事故のすぐそばで目撃していながら、 まったく、何の反応も示されず平然とこの事故を無視して通りすぎいていたのだ。
 「助けても親から賠償請求されかねない」「病院に連れていけば治療費をとられてしまう」 というのがこの事故をまったく無視した人々の偽らない思いだというのだ。
 さすがに此の映像が放映された中国では、「そんな社会は駄目だ」という或るキリスト教会の牧師の叫びに共感してキリスト教の 信者が増えたと云うが、そこまで落ちてしまった人間性の喪失、何が一体彼らをそうさせてしまったのだろう。

 「見 知らぬ人でもいい 雨にぬれていたら 走って行って 傘に入れておやり 小さいことでもいいのです あなたの胸のともしびを  相手の人に うつしておやり」
                             坂村 真民
 「あなたの胸のともしび」とは、一体何なのか。それはすべての人の奥底にひそむ純粋な本性、即ち「仏性」なのだ。 又それを「まごころ」と言ってもいいだろう。
 よちよち歩きの幼児が溝に落ちたのを見れば、誰にも云わず瞬時に飛んでいって助けてやるだろう、それが仏性であり、「真心」 であって、それは瞬時にひらめく心の反応なのだ。
「あ!落ちた、あの子の親が喜ぶだろうから助けてやろう」とか「私はあの子の命の恩人になれる、私がいなければ、きっとあの子は 死んでいた、もしかしたら私は人命救助で表彰されるかも知れない」等とは決して瞬時には思わなぬものだ。

激しく行き交う車に、うっかりすると自分もひかれるかも知れないと瞬間躊躇する事はあるだろう。 然し、日本人なら18人もの目撃者のうち何人かは道路に飛び出さぬまでも何らかの行動を起こすだろうと思うのは、私の欲目だろうか。
 まったく無関心に通りすぎてゆく中国人の心理を私は理解出来ない。
 然し、このテレビの後半では、儒教の学習集会で過去の生き方を悔いて涙を流す女性の姿や、キリスト教信者の急増が報ぜられ、 中国の人々が自らの生き方を考え始めていることは事実だと思う。
 坂村真民の「あなたの胸のともしびを相手の人にうつしておやり」の「胸のともしび」は、
  (1) あかるく(光明=Light)
  (2)はればれと(自由=Liberty)
  (3)あたたかく包んで(慈悲、愛=Love)
  (4)燃えつくしつつ(寿命=Life)
という4つの(L)によって次々と燃焼しながら人々の心の中に伝わってゆくものだと私は思う。
 これを「光明無量、寿命無量」という。
 最近のテレビもラジオも新聞も、ニュースと云えば悪い報道ばかり、どうやらニュースとは悪い知らせのみを報道するものらしい。
 私にはどうしても今から2500年前、お釈迦様が予言した「末世」が近づきつつあるように思えてならない。

ところが何の因果か私はこのテレビを見た三日後に古い友人の水墨画家・馬驍氏の要請で「第10回・馬驍芸術大賞展」 (東京中国文化センター)の実行委員長として多くの中国の友人達と芸術論に花を咲かせて大変に楽しい一刻を過ごした。
 欧米人と日本人とは顔・形・習慣等が違うから、お互いに仲良くなろうと共通点を探すことにつとめて相手との違いを寛大に受け止めて ()したる問題はおきないが、 性格の似ている親子がどうも意見が食い違うように日本人と中国人とは、いろいろな面で似ている為に、つい少しの違いでも、それは違う、 それは間違っていると反発してしまうのだろう。
 外交問題にしても、もっと親身になって、お互いに胸襟を開いて話し合う必要があると思うのだ。

いずれにしても一年の締め括りの除夜の鐘の音を聞きながら、榎本栄一の詩の一節、
 「私にけもの心の湧く時あり、その時も私は人間の顔をして暮らしている。どことりあげても感心できる自分ではない、 もしも浄瑠璃の鏡に映しだされたら、恐れ入りましたと頭をさげるはかない」を思い出し、 年に一度ぐらい心の奥底から 「諸悪莫作(しょあくまるさ)  衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)  自浄其意(じじょうごい)  是諸仏教(ぜしょぶっきょう) 」悪いことはせず、善いことを実行し、自分の心を清めるというのが仏教の根本の教えだという事を我が心にたたき込んで心のふるさとに 帰りたいと思う。

来年は私の年、7回目のうま午年である。そろそろ悟ってもいい年頃だと思うのだが。
                              以 上