ごまめの歯ぎしり
(2013年11月号)

どこまでも澄んだ秋の空を眺めていると、私はきまって国民体育大会(国体)に出場していた若い頃の事を、つい昨日の様に思い出す。(以 前の国体は11月上旬開催)
 今から68年前、第一回の国体は京都で開催されたが、その時、東日本の代表選手として出場して以来、計14回、常に愛馬と共に日本全国をまわっ た懐かしい思い出は、私の大切な青春の一部となっている。
 然るに、68回を数える今年の東京国体は何と「スポーツ祭東京2013年」とその名称が変わってしまった。
 どんな連中が決めたのか知らないが、東京都の役人や無知なスポーツ関係者達は愚かにも体育大会とするより、スポーツ大会とした方が7年後の 東京オリンピックを控えて、より相応しいと胸を張る。

敗戦の翌年昭和21年秋、日本国民が生きる為の食料も儘らぬ時代、何故スポーツ大会ではなく全国的な体育大会を開催しようとしたのか、 それは恐らく当時の関係者達が「体育」とスポーツと、そして競技スポーツとをはっきりと区分して理解した上で当時の栄養失調気味で心身と もに疲弊し切っていた若者達に心の栄養剤とも言うべき真の体育教育をどうしても広める必要があると考えたからに違いない。
 一般に知育・徳育・美育・体育といわれる4大教育の中の体育教育とは岩波書店の広辞苑によれば「健全な身体の発育を促し、 運動能力や健全で安全な生活を営む能力を育成し、人間性を豊かにすることを目的とする教育」とある如く若者達の 人間性がより豊かになることを望んだからだと思う。

それではスポーツとは一体何なのか、スポーツの語源はラテン語のDisportareからきており、総てを忘れて熱中するという意味であり、 従って単なる個人的な熱中動作にすぎぬスポーツを、お互いにその技を競い合う「競技」にしてしまった処に様々な弊害が生まれたのだ。
 曾て、世界平和の為という崇高な旗印を掲げ「平和の祭典」と銘打った近代オリンピックを開催国の経済効果と勝利至上主義を主目的として 「競技スポーツ、の祭典」とし、更にその祭を盛大にせんものとスポーツ関係者達は競技スポーツ選手達の名誉欲や射幸心を煽り立て、 観客動員数を前面に押し出しプロの選手達まで引き摺り込んで単なる金儲けの為の大会にしてしまったのも、やはりこの純粋なスポーツを 競技スポーツと解釈したところから生じたものなのだ。

7年後の東京オリンピックを控え、恐らくマスメデイアはオリンピックが平和の祭典であることを忘れ、その経済効果と勝利至上主義を前面に 押し出してスポーツ選手が絶対に守らねばならぬスポーツマンシップやフェアープレーの精神は 其方退(そっちの)けにして、メダルがどうの記録がどうのと騒ぎ立てるに違いない。
 それでは近代オリンピックの目的を示す「オリンピック憲章」には何と書いてあるのか、そこには『スポーツを通して青少年を教育する事によって 、平和でより良い世界づりくりに貢献すること」と明記されている。
 更に「その精神のもとスポーツ文化を通して人々の健康と道徳の資質を向上させ相互の交流を通じて互いの理解の度を深め友情の輪を 広げることによって住み良い社会を作り、ひいては世界平和維持と確立に寄与することをその主たる目的とする」と明確に書かれており、 そこにはお互いにその技を磨いて相手に勝ってメダルを獲得しろ等とは一言も書いていない。純粋なスポーツ文化を通して世界平和の為に努力しろ と言っているのだ。
 即ち、オリンピックに出場する者達は世界平和の為に一役買うという事で「参加する事」にその意義を見出すべきであり、 断じてメダルを獲得する事ではない

以上の事をオリンピック関係者やマスメディアは再認識すべきなのだが悲しいかなこの勝利至上主義の思想は今や世界的な傾向となってい るから最早手の施しようがない。
 1896年、フランスのクーベルタン男爵がスポーツの国際化と、それによる国際間の理解増進と平和を目的としてオリンピック発祥の地ギリシャの アテネに於いて古代オリンピックの精神を継承すべく公平と平等の旗印のもと見事に復活させた近代オリンピックも、1981年から21年間にわたり国 際オリンピック委員会を率いてきたサマランチ会長の経済効果優先政策によりクーベルタン男爵の理想は敢え無く崩れ去った。
 即ち、経済効果や勝利至上主義を優先するあまり、ドーピング・遺伝子ドーピング・用具ドーピング・暴力(フーリガン)・スポーツマンシップ とフェアープレー精神の消失・人種差別・経済的不平等・国別メダル獲得競争の熾烈化・八百長・五輪参加者の男女比と性的差別・スポーツHIV 等の健康問題等々の弊害を引き起こした。
 この様な状態のもとで開催されるオリンピックは絶対に「平和の祭典」とはなり得ず、むしろ争いの火種となりかねない。
 更に勝利する事をスポーツの目的と勘違いしている未熟な指導者達による体罰や(しご) きによって、未来のアスリートを夢見る何十万・何百万人の若者達が、その大事な人生を台無しにするのは目に見えている。
 従って、この様な状態のままオリンピックを開催するなら、現在の「オリンピック憲章」を書き替えぬ限り、国際オリンピック委員会は詐欺の 謗りをまぬがれまい。

ク−ベルタン男爵の「もしも再びこの世に生まれたら私は自分のつくったものを全部壊してしまうだろう」と言った無念の言葉を思い出す と同時に、歴史は繰り返すの喩え通り、かつての古代オリンピックが現在とまったく同じ事情によって、393年を最後にテオドシウス一世の勅命に よってその歴史を閉じたと同じ運命を辿る事となるだろう。
 近代オリンピックの未来は暗い。
 今や国家は武力の上に立ち、愛国は戦争の事として信ぜられる。もし平和の到来を人に待たん()、 我は絶望せざらんと欲するも得ざるなり。
                         (内村鑑三)
 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。
                         (宮沢賢治)
                               以 上