私は先月号で「年老いて死を目前にした時、人は怒り、否定し、あきらめ、そして受容するというが、瞑想は知的体力がないと
迷走や妄想になってしまう。従って死を目前にした透明な定義は、元気な時か或いは死に至る病気でない時に
瞑想によって自分の心の中に揺るがぬ信念を確立すべきだ」と書いた。
然し、7回もの手術を経験した83歳の老人として残された時間はあと僅か、果たして自分自身で納得して従容として死を迎えることが
出来るか、今の処まったく自信が無いとも書いた。
ところが、その原稿を投稿した数日後、2ヵ月毎に精密検査をしてもらっている20数年来の掛かり付けの医師から緊急連絡が入り、
前回の血液検査の結果、肝胆道系のデーターが異常に悪く大至急再検査の必要があるからすぐ来院するようにと言う。
身体の調子はどこも悪くなかったが、言われるままに指定された肝臓専門の医院に行って診察を受けたが原因が判明せず、更に2ヵ所の
総合病院に盥回しされ、その結果、1週間程入院して精密検査をすることになった。
今迄にも10数回の入院経験はあるものの、検査入院で1週間とは少し長すぎると思ったが、「死を目前にした時の透明な定義は、
死に至る病気でない元気な時の瞑想によって見出す以外にないと書いたのを思い出し、この入院は又とない絶好の機会と色々な宗教書等を
持って期待に胸を膨らませて入院した。
ところが、私の検査は「内視鏡的逆行性膵管胆管の造影法検査」というもので、この検査中に色々な不都合が重なると、呼吸停止に
陥るか又は死亡する確率が5%はあるという。病院としては最善を尽くすが万一の場合、以上の事態が起こり得る事を充分納得の上、
今回の検査に同意する旨の書類に署名捺印しろと云う。
20数年前の心臓手術は成功率50%だったことを考えれば何ともないので署名捺印をして、死を目前にした透明な定義を求めるべく
病室でこの文章書き始めた。
前置きが長くなったが、よくよく考えてみると私達が「幸せ」と思っている対象は総て「持ち物」なのだ。般若心経ではないが持ち物は
無常で、いつか虚い消えてゆく、うたかたの様な果敢
ない持ち物に、変わらぬ幸を求めて追いかける事自体間違いであり、命そのものが無常だということも自覚はしているつもりだが、
それでも平然と死を迎えることが出来るかというと心のどこかで「死んでも命があるように」と命だけは無常では
ないと考えたいのが人情というもの。
然し、何時来るかわからない死の瞬間まで、何とか美しく生きたいと思うなら頭であれこれ考えても始まらない。
何か具体的な仕事を見つけて、それに没頭することだ、そしてそれをきちんと果たしてゆくこと、それしか無いということは
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ねる時節には死ねるがよく候、これはこれ災難をのがれる妙法にて候」
といった良寛の言葉に一脈通ずるものがある。
又、2年前に、身辺整理を完璧に済ませ、誰にも迷惑をかける事なくたった一人で覚悟の餓死を選んだ私の唯一人の従姉妹(行年88歳)
の気持ちが私には痛い程理解できるし、自分自身生きる価値を見出せなくなったら家族に精神的、経済的苦痛を与えることなく
従姉妹のように自分から死を選ぶ覚悟は出来ている。
そしてこれこそがこの世に悔いを残さない唯一の方法であり、その時が来るまでは具体的な仕事に没頭しようと思う。
相田みつをの“道”という詩に次のようなものがある。
「長い人生にはなあ どんなに避けようとしても どうしても通らなければならぬ道−−てものがあるんだな そんなときは
その道を黙って歩くことだな 愚痴や弱音を吐かないでな 黙って歩くんだよ ただ黙って−−涙なんか見せちやダメだぜ!!
そしてなあ その時なんだよ 人間としてのいのちの根がふかくなるのは……」。
自分のこれ迄の人生が、どんなに悪運続きであったとしても他人に代わってもらうわけにはゆかない。
自分の人生は総て自分の蒔いた種、どんな困難な問題でも最終的な判断は自分で出さざるを得ない。
“人
事を尽くして天命を待つ”という言葉があるが、これはちょっと考えると自力本願の如く聞こえるが、私はこれを“人事を尽くすは、
これ天命なり”とすべきだと思っている。
ベストを尽くすという働きは、よくよく考えるとこれは決して自力ではなく他力の働きが大半なのだ。
他力と自力は横並びではなく他力は自力の母なのだと思う。
自立する志はどこから生まれるのか、親鸞は自分が立つのではなく、弱者であり怠惰であり面倒臭がりやの人間が一人で立つのには、
やはり何らかの大きな他力の風が吹かないと駄目だという。
又、雲門禅師は「日日是好日」とは自分の都合の良い悪いという自分の物差しで考えるのではなく、仏様の物差しで考えれば、
自分の都合の悪い体験も、それを貴重な反省の機会として捉えれば立派に好日となるという。
二十数年前の心臓手術のために2ヵ月毎の精密検査を余儀なくされ、そのお陰で、身体の異常が判明するという他力の風によって
設備の整った総合病院で検査を受けることになり、恐らく私の寿命も有難いことに多少は伸びるに違いない。
兎に角、悔いの残らぬよう、「人事を尽くすは、これ天命なり」とこれからの余生、何か積極的に仕事を見つけて、それに没頭する
ことにして取り敢えず検査を受けよう。
その結果は約半月後に判明するらしいが、後の事は仏様の物差しで計ることにして。
以 上