アンチ・エイジンブという言葉が流行っている。
その意味を聞くと大概、「若返りの技術」とか「年をとらないための方法」等という答えが返ってくる。
エイジング(Ageing=英語。Aging=米語)とは「齢
を重ねる」とか「年をとる」という事で、アンチ(anti)は英語で否定を意味するから
「年をとらない方法」という事になるが「若返りへの技術」とは何となく「こじつけ」の様な気がする。
此の世に年をとらない生き物など存在するはずもなく、若い時はどんなに美しい人でも年をとると、いやでも腰はまがり、
艶がなくなり、髪は白く薄くなり、耳も遠く眼もかすみ、歯は抜けて醜くなる。
何とかして若さを保とうとしても所詮は焼け石に水。
肉体的には限度があり、いつまでも若さを維持することは不可能であり、その事を
「天人五衰」と言う。
従って、いやでも刻々と衰えていく肉体に対して無駄な抵抗をすることなく、心の美しさこそ永遠の美につながる
と思い定める必要がある。
その証拠にたまに若い時より年老いてからの方が遥かに美しく見える人に出会う事がある。
そうした人の美しさは若者特有の外面上の肉体的美ではなく、内面の精神美から惨み出してきた結晶の美しい見事な顔であり、
いろいろな長い人生の中で経験を重ね苦難を乗り越え一生懸命に生きてきた人の顔であり、立ち居振る舞い、
身のこなしなのだと思う。
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世紀、アメリカの詩人、ホイットマンは、”女あり 二人いく 若きはうるわし 老いたるは なおうるわし”と詠んだ。
何とも味わい深い詩ではあるが、数年前、101歳で亡くなられた臨済宗・龍源寺の住職、松原泰道老師は、その様な老人の美を
「丹精の美」と言った。
例えば花器や茶器は新品でいかに高価であっても、古いお道具の方が値打ちがあり珍重される。
錆の出やすい茶釜に錆を生じさせないようにするには常に手入れを怠らない丹精が欠かせない、割れやすい花瓶を傷めないように
するにも丁寧な取り扱いが必要であり、これもやはり丹精と言うことになる。
この事は人間にとっても同じ事で、私達は齢を重ねるごとに身のこなしや、ものの言い方や考え方に丹精を忘れてはならない、と老師は説く。
老いの意味を知り、それを活かす能力のあるのは人間だけだっその能力を活かす老人こそ「美しい老人」であり「丹精の老人」と言う事が出来る。
坐禅の「坐」は土の上に二人の人間が向かい合って一人は感情のままに行動している自分であり、もう一人はそれをじっと
見据えている自分だと言う。
前者は自我、
後者を自己と言う。
自我と自己を常に自分の心の中で対話させることによって調和の世界が生まれる。
年老いて死を目前にした時、人は怒り否定し、あきらめ、そして受容するというが、瞑想は知的体力がないと、迷走や妄想になってしまう。
「死を目前にした透明な意識」は元気な時、あるいは死に至る病気でない病気の時に瞑想によって自分の中につくっていくものだと思う。
然し、徒然草に「死期は序を待たず、死は前よりもきたらず、
かねて後に追われたり」とあるように、死は自分の前から来ると思っていると突然後ろからやってくる、要するに丹精の美を身につ
けようと思えば、本日只今より即刻とりかからねばならない。
“今という今こそ今が大事なれ、大事の今が生涯の今”(詠み人知らず)
「時不待人」。
時は悠久で無始無終であり、人間はその一点にいるだけの事で今のひと時に全生命を打ち込む事が肝要だと仏教は説いている。
そうかと思うと、そのうちに暇をみて丹精の美を身につければいい。同じ人生、のんびりゆっくり行こうじゃないかとスロー・エイジング等
というものもあれば、スマートに恰好良く暮らしたいとの思いから、スマート・エイジングというのもがあるが、
その格好の良さは内面の精神美から惨み出してくる丹精の美でなければスマートとは言いづらい。
唯、近い将来ES細胞やIPS細胞の研究が進み、再生医療によって人間の寿命は飛躍的に伸びることになりそうだ。
然「法句教」に
「頭白しとて このことによりてのみ
彼は長老たらず 彼の齢
より熟したりとも これ空しく老いたる人とのみよばれん」で中味がともなわなければ人様に迷惑がられて老醜を
晒すことになる。
かくいう私も、このように偉そうな文章を書きながら一体どうしたら私自身美しく老いる事が出来るのか、今のところまったく自信がないが
私に残された時間はあと僅か。
どうやら「論語読みの論語知らず」と人様から言われそうな気がする。
以上