原点にかへれ(V)
(2013年5月号)

前回私はオリンピックを何としても世界平和の祭典にすべきだと書いた。
 何故なら、それがオリンピックを創った古代ギリシヤのイフィトス王や近代オリンピックの創設者クーベルタン男爵の唯一の目的 だったからである。
 1981年、サマランチ氏が国際オリンピック委員会の会長に就任した当時、次のオリンピック開催に名乗りをあげていた都市は ロサンゼルスのみという有様で、まさにオリンピックは存続の危機に立たされていた。
 然し、サマランチ新会長のもと、オリンピックの組織委員会を率いることになった若きピーター・ユペロス氏は、プロの参加によって 大会を華やかに演出し、テレビの独占放映権と引き替えに協賛金を飛躍的に吊り上げる一方、一業種一社のスポンサー制度を導入して 多額の賛助金を得ると同時に聖火ランナーからも参加料を取る等、徹底した企業論理を持ち込み、1976年モントリオールでは10億ドル もの赤字を計上した大会をロサンゼルスでは最終的に約2億ドルの収入を生み出し、オリンピックは「儲かるイベント」だということ を全世界に証明してみせた。

然しその結果、悲しいかなオリンピックは単なる金儲けの為のスポーツ大会という考えが定着し、今回の東京都招致についても オリンピックは3兆円もの経済効果と約15万人以上の雇用を生み出すと宣伝し、日本の未来を強くつくり出す起爆剤となるとして 国民の支持率向上を計っている。
 その一方、プレゼンテーションでは、「アスリート・ファスト」を前面に掲げて選手達の名誉欲と射幸心を煽り立てている。
 従って、唯でさえ長年にわたりスポーツ関係者やマスコミに洗脳されて、オリンピック出場とメダル獲得を最高の名誉と思い込んで しまっている若者達の情熱の炎に油を注ぐ結果になりかねない。

更に、近年とみにオリンピック入賞者のプロとしての独立が進み、選手達のスポンサー収入は飛躍的に増大し、その反面、国別対抗の 団体戦等においてさえ国家の代表としての意識が薄れ、かつて大会の主役であった選手達は「アスリート・ファスト」どころか、 新たに主役となったスポンサーの「お抱え役者」となり、大会は今や「選手の見本市」と化し、曾てのアマチュアの純 粋さは失われつつある。
 その上、組織委員会の最大のスポンサーであるテレビ局は選手の都合は無視してテレビの企画を最優先にするようにと競技会の運営 にまで干渉するようになり、世界のメディア王と言われる米国のマードック氏は、「近い将来、間違いなくスポーツ大会やリーグを メディアが運営するようになる」と豪語している。

要するに、此のような状態では今後いかなる企画を立てようとも、オリンピックを世界最大のスポーツマーケットととらえ、 その大会を商品として扱うコマーシャリズムを変えぬ限り、オリンピックは絶対に「平和の祭典」とはなり得ない。
 オリンピックを「平和の祭典」とする方法は唯一つ、オリンピックから「競技スポーツ」を排除することだ。
 そしてスポーツ関係者やマスコミはスポーツの世界一を決めるのは、様々な出場制限のあるオリンピックではなく、世界選手権 こそが真の世界一を決める大会であるということを若者達に骨の髄まで染み込ませる必要がある。
 然し、だからと言って、これ迄純粋な情熱を燃やしてオリンピックに挑戦し、数々の栄冠を勝ちとった、かつての名選手達が残した 功績は決して無駄であったとは言えない。
 彼等の行為が仮令(たとえ)世界平和と無関係であったにせよ、全世界の人々、 特に若者達に与えた夢と勇気と興奮とそして感激は計り知れないものがあったのも又事実である。
 然しその反面、将来のオリンピック選手を夢見て未熟な指導者の犠牲になって唯一度の大事な青春を狂わせて、取り返しのつかない 惨めな人生を送ることになった若者達が、一人のアスリート誕生の陰に何十、何百万人もいたことを忘れるわけにはいかない。

それでは一体どの様な企画を立てればオリンピックを平和の祭典となしえるのか。
 それは新企画の大会の期間中、世界中のいろいろな国が、その特色を生かした企画を立案し、各国同時に大規模なイベントを 開催する事だ。
 例えば、
○インド・・・・・ 印度の僧侶達が世界中の宗教団体に大号令を発し、少なくとも この期間中だけは産地限定の各宗教も仲良く一堂に会して戦争 で犠牲となった人達の冥福と世界平和を祈念する一大法要を営 む。
○オーストリア・・ 世界中の有名な音楽家及び楽団を招聘して音楽祭を開催。
○イタリア・・・・ 世界的に有名な故人も含む芸術家の作品展(絵画・彫刻・工芸等)の開催。
○ロシア・・・・・ 世界的に有名な舞踏家、劇団による演劇祭の開催。等々。

 そして従来と同じ形式でオリンピック開催が決まった国は、一般大衆が最も見て楽しく又観客動数の多いスポーツ種目 (相手がいなければ成立しない競技スポーツは除外)を「オリンピック種目」とし、その種目の世界ランキング上位30位に よるエキシビション大会を開催する。

尚、現在のオリンピックは都市の主催が原則だが、何も紀元前8世紀の都市国家にこだわる事なく国家的事業として国が開催する方が 望ましい。
 従って、それらの大会に出場又は参加する人達は宗教家も芸術家もスポーツ選手も等しく世界平和の為に貢献するのだという誇り をもって、それぞれの大会に参加し、殊にスポーツ選手達は勝負に関係なく失敗を恐れず、難度の高い技に挑戦し、勝負をつける為だけに 設けられた無意味な審判規定に惑わされることなく、のびのびと自己の最高の演技を披露し観客を大いに魅了すればいい。
 超一流の選手達の演技は超一流の芸術であり、それに甲乙をつけるのは間違いである。
 今、世界各地で起きている人種・宗教・領土問題等に起因する紛争は、あまりにも複雑に絡み合って容易なことでは解決するとは 思えない。
 然し、宗教と芸術、そしてスポーツは国境を越え、民族意識を超越し、お互いの文化と伝統を尊重し合い理解し合うことの出来る ものだと思う。
 そして此の様な企画の下で開催されるオリンピックこそ1904年の第4回ロンドン大会の折、セントポール寺院のペンシルバニア司教の 「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」と言った言葉や、クーベルタン男爵の「人生で最も重要なことは 勝利者であるということではなく、その人がいかに努力したかである」といった言葉が生き生きと蘇るというものだ。

最後に私には寡聞にしていろいろと思い浮かばないが、世界中の国際的規模で平和活動を展開している機関、例えば、ジャイカ、 赤十字、ユネスコ、ユニセフ、PKO等々がこの期間に一斉に何らかの活動を展開するとすれば、少なくともその期間だけは平和が 保たれるのではないだろうか。
 古代オリンピックでは5日間の「エケケイリア」(大会期間中休戦)で3ヵ月間も戦闘を止めたという例もある。
 平和は平和よりきたる。平和の為の戦いという名目からは決して平和は訪れない。

それでは最後に仏教詩人、坂村真民の「二度とない人生だから」を紹介しよう。
 “二度とない人生だから戦争のない世の実現に努力し、そういう詩を一篇でも多く作ってゆこう。私か死んだら、 あとをついでくれる若い人たちのためにこの大願をかきつづけてゆこう”
                             以 上
 (筆者、2001年度馬場馬術世界ランキング第82位)