前回私は「原点にかえれ」と題して、主に学生スポーツをとりあげ、最近流行の「運動部の
扱き」問題に関しての
様々な議論はスポーツの本質を弁えぬ、まったく見当違いも甚だしい論争だと書いた。
そして今回はオリンピックの原点について書こうと思う。
7年後に迫ったオリンピック開催にリベンジをかけた東京都は、日本オリンピック委員会を抱き込んで東京招致に躍起となり、涙ぐましい努
力を続けている。
然し、その「立候補ファイル」たるや誠に淋しい限りで本末転倒の感を否めない。
そもそも、オリンピックの起源は紀元前8世紀、エリス国のイフィトス王が絶え間のない都市国家間の紛争を止めさせて平和な世界
を取り戻そうと考えた末、神様のお告げにより平和確立の一手段として、お互いに技を競い合う「競技スポーツ」ではなく純粋な
スポーツを採用したのだ。
ここで言う純粋なスポーツとは前回詳しく述べたが、その意味は「全てを忘れて熱中するということ」で、決して
勝ち負け等を争うものではなかった。
その結果、幸いにもオリンピック期間中、各都市国家間の平和協定も結ばれ、暫しの平和をもたらすことが出来た。
然しその後、優勝者には郷土の英雄として大きな特典が与えられようになり、それが買収・八百長等の弊害をもたらし、回を重ねるごとに
現在のオリンピック同様、見世物的傾向が強くなり、本来の平和目的の影が薄れたため、紀元393年を最
後にその幕を下ろすこととなった。
それから約1500年の時を経て、フランスのクーベルタン男爵がスポーツの国際化とそれによる国際間の相互理解増進と平和を目的
として古代オリンピック発祥つ地、ギリシヤのアテネに於いて古代オリンピックの精神を継承すべく公平と平等の旗印のもと
近代オリンピックを復活させた。
従って、現代のオリンピック憲章には、この古代オリンピックの精神に基づいて行われるスポーツを通して青少年を教育することによって
平和でより良い世界づくりに貢献することと明記し、更にその精神のもとスポーツ文化を通して人々の健康と道徳の資質を向上させ
相互の交流を通して互いの理解の度を深め友情の輪を広げることによって住み良い社会を作り、ひいては世界平和の維持と確立に寄与することを
その主たる目的としたのだ。
この様に世界平和を目的とした崇高な理想のもとに開催されるべきオリンピックも「歴史は繰り返す」の諺通り回を重ねるごとに各国の
国威高揚の場と化し、勝利至上主義がをてに優先するようにな判お互いに枝仝競い合うことによって敵対意識を駆り立て、メダル獲得競争
のもとフェアープレーの精神やスポーツマン・シップはまったく影を潜め、マスコミも又その精神を評価しなくな
り記事にすることを止めてしまった。
更に、勝つ為には手段を選ばずとばかりにドーピング問題が大きく浮上し、用具ドーピングや果ては遺伝子ドーピング等という
忌わしい問題まで現実となってきつつある。
今から80数年前に此の世を去ったクーベルタン男爵は第一次世界大戦の折、母国フランスに於いて「国際平和」を唱えたため、反国家的とみ
なされて迫害を受け、止むを得ずスイスに亡命し、「もしも再びこの世に生まれたら、私は自分の作ったものを全部壊してしまうだろう」と
無念の言葉を残して失意のうちに此の世を去ったが、彼はその時既に彼のつくったオリンピックが彼の理想としたものと大きく懸け離れ
てしまったことに落胆したからに違いない。
彼の死から更に半世紀、開催国の商業化に成功したサマランチ国際オリンピック委員会会長によって、「平和の祭典」たるべきオリンピックは
完全に「金儲けの為のスポーツ競技会」、「選手の見本市」へと堕落してしまった。
その結果、オリンピックは儲かるイベントという考えが一般に定着し、7年後に迫ったオリンピックの招致に対しての東京都の立候補ファイルは、
「世界で最も先進的で安全な都市での五輪開催」を掲げ、更に東日本大震災からの復興までも目的の一つに加え、都知事はスポーツの力で復
興を後押しすると力説し、2020年のオリンピックは私達に夢をくれる。そして力をくれる。東北での競技開催を含めた、日本の未来を強くつくり
出す起爆剤となり、その経済効果は約3兆円。15万以上の雇用を生み出す」として、何としても日本国内のオリンピック支持率を高めようと
躍起になっている。
要するに東京都が闘鶏賭博の胴元になって、一儲けしようという魂胆なのだ。
従って東京都の立候補ファイルには平和の「へ」の字も入っていないばかりか、3月4日から始まった東京招致のプレゼンテーションでは首
相をはじめ誰一人として「世界平和の為」を口にした人はいなかった。
今や、全世界の人々は曾てオリンピックが「平和の祭典」であったことを完全に忘れてしまっている。
当初、世界で唯一の核被爆都市として核廃絶を旗印に長崎と共催でオリンピック招致を提唱した広島も、2都市共催は招致に不利との判断と
財政面も搦んで、あっさりと立候補を断念してしまった。
戦争によって広島と長崎両都市で約21万人もの善良な市民が殺されたことを忘れてはならない。
この記事を書いている最中でも人権問題を巡って米露の対立が深まり、両国間の核軍縮交渉にも暗い影をおとし、国運安保理制裁決議に
反発した北朝鮮は「核攻撃によってワシントンを火の海にする」と口汚い脅しをかけている。
今こそ「核廃絶と世界平和・そしてクーベルタンオリンピックの復活」を旗印に招致活動を展開すべき時だと思う、そして何時の日
にか広島・長崎共催のオリンピックが実現するよう祈るばかりである。
その結果として日本の景気が良くなれば、大いに喜ばしいことだが、しかしそれはあくまでも付録にすぎない。
又、最近では、レスリングや柔道の問題で関係者は右往左往しているが、それもオリンピックの原点に立ちかえれば、枝葉末節の話しである。
今から100年前、セントポール寺院のペンシルベニア司教は、「オリンピックで重要なことは勝つことではなく、参加することである」と言い、
その言葉に続いてクーベルタン男爵は、「人生で最も重要なことは、勝利者であるということではなく、その人がいかに努力したかどうかである」
と付け加えた。
オリンピックを勝利至上主義、メダル獲得競争の場、そして金儲けの具にしてはならない。
又、一国で1種目4名しか出場できないオリンピックは、決して世界一を決める大会ではない。世界一を決めるのは世界選手権唯一つだという
ことを総てのスポーツ関係者並びにマスコミも再認識しなければならない。
重ねて言う、オリンピックの目的は唯一つ、それは世界を平和にする為のイベントにすることだ。
平和は平和よりきたる。平和の為の戦いという名目からは決して平和は訪れない。
平和程尊いものは此の世には存在しない。
戦争を経験したことのない人達には戦争の馬鹿らしさ、悲惨さを理解することができないかも知れない。
然し、今こそ人類は世界平和の実現の為に、あらゆる努力をすべきではなかろうか。
それでは次回、オリンピックをどうしたら世界平和に寄与するように演出できるか、私の奇想天外なオリンピック論を書こうと思う。
(筆者、2001年度馬場馬術世界ランキング第82位)
以 上