原点にかへれ(T)
(2013年3月号)

高校2年の男子生徒が、バスケットボール部の顧問教師の体罰を受けたとして、その翌日自殺した。
 明治12年制定の教育令第46条によれば「凡そ学校に於いては生徒に体罰(殴るあるいは縛するの類)を加えるべからず」とあり、又、 学校教育法第11条では「校長及び教員は教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」とある。
 これらの条文は、少なくとも教育に携わる者達は百も承知のはずなのに、殆どの中高の学校の運動部に於いては、公然の秘密として体罰が 罷り通っている。
 自殺した生徒の通夜の晩「これは指導ですか体罰ですか」という母親の質問に対レ顧問教師は「体罰です」と謝罪したという。

この問題受けて、桜宮高校が市立校であったため、市立高校の行政の最高責任者であるはずの市長は彼自身の謝罪は棚にあげ、市の予算を 盾に「これは教育現場の最悪の大失態だ、こんなことで入試をやったら大阪の恥だ」と喚きたて、市教育委員や学校責任を追及し、結局 大阪市教育委員会は、その高校の体育科及びスポーツ健康科学科の入試の中止を決定、普通科に振替募集することとなった。
 この大阪市長のとった行動は換言すれば、自分の気に入らない生徒に体罰を加えた顧問と本質的に何ら変わりはなく、むしろ彼の為に 目標を無くした受験生、自校の存在を否定された在校生達の心の傷は大きく、自殺した生徒は決してこの様な結末を望んではいなかったと思う。

ところが、この事件に対し新聞やテレビは毎日の如く、やれ勝利至上主義を断ち切るべきだスポーツ名門校としての名誉を守る為に或 る程度の(しご)きは必要だ等と学校側は勿論アスリートを夢見る生徒やその父兄達も 交えてまさに喧々諤々。
 然し、それらの議論は私に言わせれば総てスポ−ツの本質を弁えぬ空論にすぎない。
 その上、まったく学生スポーツの何たるかも解せぬスポーツ関係特達の意見を鵜呑みにしたマスコミは、さもそれが自分達の意見であるかの 如く報じるから始末が悪い。

そもそもスポーツの語源はラテン語のDisportareからきており、その意味は「総てを忘れて熱中する」ということで、決してそれ以外の 何物でもない。
 「なすことの一つ一つが楽しくて 命がけなり遊ぶ子供ら」(楢崎通元老師)
 これこそ、スポーツ本来の姿なのだ。
 即ち、本来のスポーツは決して運動競技(技を競う)であってはならず、競技スポーツとはあくまで一線を画すべきである。
 純枠なスボーツと競技スポーツとを同一視し無理やり変な規則を設けて勝ち負けをつけようとするところから勝利至上主義等という化け物が 学生スポーツの世界にまで浸透してきてしまったのだ。
 スポーツ本来「楽しむ」という事からすれば、世間で姦しく取り沙汰されている議論は見当違いも甚だしいと言わざるを得ない。

それでは、学生スポーツはというと、抑々(そもそも)学校の語源は「孟子」に由来し、 学校が学生達に求めるものは「知育・徳育・美育」でありこれら三つの教育を満足させる為に学生達が或る程度の 体力を必要とするところから、後に保健体育が追加されたのだ。
 従って、学校の目指すものは、あくまで「知育・徳育・美育」であり、保健体育は、その補助的存在にすぎない。
 更にその保健体育から保健をとった「体育」でさえ辞典を(ひもと)けば 「健全なる身体の発展を促し、運動能力や健全で安全な生活を営む能力を育成し、人間性を豊かにすることを目的とする教育」 と明記されている。

要するに、学校に於ける体育活動は試合等によって技を競い合うものであってはならず、まして他の生徒より強くなる必要等まったく無いのだ。
 重ねて言う。学佼の使命は以上の目的をもって、立派な社会人を一人でも多く社会に送り出すことであって、決してスポーツ競技等で勝ち負け を争わせたり、スポーツ選手を育てることであってはならない。
 まして、スポーツで学校の名前を世に広めよう等という浅ましい考えをもったり、又学生達も学業を疎かにしてまでスポーツに熱中して選手とし て有名になろう等と考えるべきではなく、その上父兄達も子供をスポーツ名門校(スポーツ名門校は体育学校のみ)こ通わせる為に家族で転居する 等噴飯ものだ。

東日本高等学校馬術連盟の会長であった時、私は常に学生馬術に於ける「馬」は、あくまで副読本的存在であるとして、物言わぬ馬という 愛情豊かな生き物に接しながら、相手の気持を察することのできる、所詮、孔子の言う 「(じょ)」の精神を養うことがその主目的であって、馬術競技で勝つこと等は「二の次」 だと言い続けてきた。それが学生馬術本来の姿なのだから。
 又馬術に関連して最近の体罰や(しご)きについて述べると、馬の調教の場合の大前提は、 叱ってもいいが決して、怒ってはいけないと言うことだ。感情にまかせて怒るという行為は馬と調教士が、その瞬間馬と同レベルにいたという証拠 で、人は指導するという立場から常に馬の上にいなければ調教は出来ず、それを可能にする唯一の背景は馬に対する「愛」である。

最後に一言付言すると、私か過去に行ってきた世界を相手とする馬術競技は今回私が述べてきた話しとは全く次元の異なる世界であり、この 原稿を書いている最中に発生した日本を代表する女子柔道選手達が、ロンドン五輪に向けた強化合宿で監督が暴力を振ったことに対する告発事件を 文科大臣が学生に対する体罰と同一視しているが、これは全く次元の違うものであり、お粗末の一語に尽きる。
 その事も踏まえて来月号では2020年東京五輪誘致問題について、やはりこれも原点に返って考えてみる必要があると考え、 その問題に触れようと思う。
 (筆者、2001年度馬場馬術世界ランキング第82位)

以 上