福の神と貧乏神
(2013年1月号)

あけましておめでとうございます。
 正月早々貧乏神にご登場願うのは何となく気が引けるが、一体和尚が正月に竹竿の先に髑髏を捧げて「御用心、御用心、門松や冥土の旅の一里 塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と歌っているから、これもお許しいただくとしよう。
 新しい年を迎えると人々はそれぞれの希望を胸に何となく清々しい気分で「おめでとう」と言う。
 「めでたい」を目出たいと書けばサイコロを振って良い目が出たということから幸運にめぐり合うことであり、お芽出たいとかけば春になって 一陽来復、陰がきわまって陽がかえり草木の芽が萌え出でて好い季節がやってくる。その幸福の喜びと感謝をこめて「お芽でとう」と言う。

去年の10月号の「馬耳東風」に私は神様と仏様について書いたが、もし、神と言うものが此の世に存在するならば、いわゆる 八百万(やおよろず)の神様の中で一番好かれる神は「福の神」であり、その反 対に誰からも嫌われるのは「貧乏神」だろう。
 最近では滅多に聞かれなくなったが2月3日の節分の夜には、あちこちの家から「福は内、鬼は外」の声を聞くことが出来た。 要するにこれも貧乏神を追い出して何とか福の神を迎え入れたいという果敢ない庶民の願いなのだ。
 川柳に「家周囲(いえじゅう)を福の神がとりまいて、貧乏神の出どころがなし」 というのがあるが、古典落語では家に居座って、なかなか出てゆかない貧乏神に業を煮やした熊さんが家事一切を強制的に押しつけて ()き使い、「これではとても身がもたない」と家を出てゆこうとする貧乏神に、 それなら、おれの友達で最近女房を亡くして幼い子供を抱えて困っている男がいるから紹介してやろう、もしそっちの家の仕事が大変たったら 遠慮なく又帰ってこい、というのがある。
 今のこの世知辛(せちがら)い世の中、日給も払わず飯も食わない使用人の貧乏神に とりつかれるのも満更悪いとは限らない。
 第一、貧乏神がいると欲の皮の突っ張った我利我利亡者や、腹に一物ある野心家どもは寄り付かず、常に身辺清風掃々の感を 昧わうことが出来る。
 又、お金がなければ異性の為に身を誤ったり、暴飲暴食の結果、糖尿病や神経痛に悩まされる心配もなく、第一死後遺産相続問題で残された 人達に揉め事の種を残すこともない。
 そして、この事は、あらゆる物事に共通する普遍の真理でもあり、これこそ大乗仏教の悟りというものなのだ

何かを自分のものにすると、世の中が自分のものと自分のものでないものとにわかれてしまう、何も自分のものにしなければ自分のものでな いものなど世の中にない。と日蓮宗養源寺の前田住職は言う。
一、幸せになろうとして富を求めたら、賢明であるようにと貧困を授かった。
一、大きなことを成し遂げる為に力を与えてほしいと神様に求めたら謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
一、より偉大なことが出来るようにと健康を求めたのにより良い事が出来るようにと病弱を与えられた。
一、世の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに得意にならないようにと失敗を授かった。
一、人世を楽しもうと沢山のものを求めたのにむしろ人世を味わうようにとシンプルな生活を与えられた。
 求めたものは何一つとして与えられなかったのに願いはすべて聞き届けられた。
 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ
 この文章の作者は不詳だが、何とも味わい深い言葉ではある。
 この文章の後に私かもう一つ付け足すとすれば「幸せになりたいと福の神を望んだら、大乗仏教でいう悟りをひらけと貧乏神が来てくれた」。

幸福は一体どこにあるのか、人として生まれた以上、これに全く無関心ではいられない。
 然し、不思議なことにその幸福をはっきりと定義づける事の出来る人はそうざらにはいないと思う。
 それを見分ける制定力が無いために、せっかくのものを見逃しているケースが非常に多いのではなかろうか。
 「道は近きにあり 然るに人これを遠きに求む」とは古聖の言である。
 幸福を楽しむ道は案外身近にあるのだ。それなのに無闇に他人を羨んで三千世界の貧乏くじを一人で背負いこんだように愚痴ばかりこぼすのは、 自分で自分を不幸な気分に追い込むだけだ。

今日一日の勤めを終えて家に帰り、家族が温かく迎えてくれる、「一日の苦労は一日にて足れり」だ。
 「心配御無用、神様はあなたが担ぎきれないほどの重い荷物を背負わすことはありません(中島教之)
 人世すべてバランスシート、それが調和の世界だとは亡き父の口癖だ。

めでたい新年の出発にあたり、まずは神仏やご先祖様の加護を祈り、信仰心と一致団欒の和合の力を持って、この一年の山坂を登り越え繁栄 の彼岸に行き着くようお互いに努力しようではありませんか。

以 上