文 月(ふみづき)
(2012年7月号)

いよいよ、ロンドン・オリンピックが幕をあける。
 テレビもラジオも新聞も、あらゆるマスコミは挙って日本選手の活躍ぶりを報ずることだろう。
 然し、この一大イベントの唯一無二の目的が、「世界の平和」の為のものであるということ、そしてこのイベントが世界の平和に間違いなく 貢献していると思っている人は、まずいないと思う。
 それどころか、各国選手がお互いにその技を競い合って自国が獲得したメダルの数と色に目の色を変えているようでは、まかり間違うと、 このイベントが各国間の争いの種になりかねない。
 私はこれまでに近代オリンピックの弊害について、この誌面を借りて幾度となく書いてきたが、恐らく今回もオリンピック期間中、 この地球上のいろいろな所で争いが絶えず、何の罪のない何百何千という尊い命が失われることだろう。
 ところで、どこかの知事のようにオリンピックに血道をあげるのもいいけれど、この7月(文月)という月は日本人にとっては、七夕あり、 お盆あり、そしてお中元ありボーナスありと、なかなかに忙しい月でもあるのだ。

そこで今回は、それら半ば慣例化している行事の起源について考えてみようと思う。
 まず、「お中元」は中国より伝わったもので、正月15日を「上元」、7月15日を「中元」、そして10月15日を「下元」といい、 元来中国ではこの「三元」」の日には金品を捧げて贖罪(しょくざい) (罪の埋め合わせ)をする、いわゆる懺悔というか、罪滅ぼしの日とされていたものが日本では形を変えて7月15日だけ を、「お中元」として縁故者や目上の人や恩人に贈り物をして日頃の感謝の心を表す日となっている。
 又、12月のお歳暮は、元来読んで字の如く年の暮のことだったのが、いつの頃からかこれも、「お中元」と同じように日頃世話になった 人々に「お歳暮」として一年間のお礼心をこめて贈り物をする様になった。
 従って、本来の意味からすると、「お中元」は罪滅ぼしの為の送り物を、そして「お歳暮」はお世話になった人々への感謝の 贈り物とはっきりと割り切るべきなのかもしれない。

次に、「七夕」の行事だが、一般的には一年に一度7月7日の夜、織姫( 織女(しょくじょ)星、西洋風にはこと座のベガ)と 牽牛(けんぎゅう)(牽牛星、西洋風にはわし座のアルタイル)が 天の川を渡ってデートする日とされていて、その日に願い事を書いた短冊を笹の葉につるして織女星に技芸の上達を願うことにな っている。
 然し、実はこの「七夕」伝説の起源もやはり中国で中国の織女・牽牛の伝説と日本の裁縫の上達を願う 乞功奠(きっこうでん)の行事が混ざり合って伝わったものらしい。
 又、中国の織女・牽牛伝説はその昔、天帝という神様が星空を支配していた頃、天の川の西の岸に織女という天帝の娘が住んでいて、 妓女(織女)は来る日も来る日も布を織っていたので娘の事を心配した天帝が大の川の来の岸に住んでいた 働き者の牛飼いの青年牽牛と夫婦にしたというのだ。

とろが夫婦になった二人はそれ以来一切仕事をしなくなり、その為に天界には新しい布が届かず、牛も餓死する始末、怒った天帝が二人を 引き離し一年に一度、7月7日の夜だけ、天の川を渡って会う事を許したというのだ。
 一年に一日のデート以外は仕事、仕事の毎日を強制されるという、いかにも儒教的思想の色濃い話しだが、そのたった一日のデートを 楽しもうとする織女に最近では手芸や芸能の上達の外、学習全般までお願いするのは、あまりにも無粋というか残酷な話しではないか。
 相思相愛の若い二人の一年にたった一度のデートの日ぐらい、そっとしておいてやるくらいの優 しさと思いやりが欲しいものだ。

最後にお盆の行事だが、昔は「盆正月」といって新年と同じ様に三ヶ日は家事を休み、一家団欒して祖先の御霊を祭ったものだ。
 然し、今日では13日の夕刻に迎え火をたいて御先祖真の御霊を迎え、15日にお坊様を迎えて読経回向をして頂き、16日に送り火をたいて 精霊を冥界へお送りするという日本古来の行事を忠実に実行する家庭はあまり見かけなくなった。
 これでは、最近のお坊様「坊主丸儲け」どころか「坊主もう毛がない」ということになってしまう。
 仏教で恩とは「してもらったことを覚えている」という意味で、私達がこうして毎日(つつが) なく暮らしてゆけるのは、両親の恩であり御先祖様はすべて私達の大恩人なのだ。
 従って、私たち日本人の先祖は遠い昔からお盆と正月を年二度の大きなお祭りとして家族の集会と先祖に感謝の気持ちを込めてお祭りする という美しい風習をつくり出したのだ。
 どの様に文明が進歩しても、いや進歩すればする程、この習慣を廃れさせてはならない。

日本人にとって「お盆」の行事は心の故郷のはずであり、現実の苦悩から脱却して明るく正しい生活へ転換せしめる精神復興の伝統的行事 でもあるわけで、その意味からしても、お盆の行事を決して形式的な行事に終わらせてはならない と、お盆が来るたびに私自身心を新たにしている次第である。

以 上