ロンドン・オリンピックまで100日をきった。
恐らく、この記事が「コア」に掲載される頃には新聞もテレビもオリンピック一色に染まっていることだろう。
私は今迄に「コア」の誌面を借りて近代オリンピックの弊害について再々書いてきた。
近代オリンピックは一体「平和の祭典」なのか、「スポーツの祭典」なのか、それとも金儲けの為のスポーツ大会、経済効果のみを
ねらった唯のイペントなのか。
近代オリンピックの創始者、クーベルタン男爵ぱ何故「私はふたたび此の世に生まれたら私の創ったオリンピックを全部壊して
しまうだろう」と言ったのか。
現在のオリンピック関係者達やマスコミ達は男爵の遺言ともとれるこの言葉の真意を正しく理解して今後のオリンピックのあり方の
軌道を修正すべきである。
スポーツ関係者やマスコミに洗脳された若者達はオリンピックに出場すること、そして願わくはメダルを獲得することがスポーツマンの
最高の名誉だと勘違いして、彼等にとって大事な唯一度の青春を無駄に費やしていることを気付かせるべきなのだ。
クーペルタン男爵の真の狙いは、オリンピックを「平和の祭典」にすることであって、決して獲得したメダルの色や数ではないのだ。
まして選手達の名誉等まったく問題外なのである。
元来、スポーツとはラテン語の「ディスポーター」を語源としその意味は「総てを忘れて熱中する事」であり、相手に勝つとか負けるとか、
そんなケチな言葉ではない。
だから、紀元前8世紀、エリスのイフィット王はデルフィの神様のお告げによって、絶え間のない都市国家間の紛争を中止させる手段
としてスポーツを選んだのだ。
スポーツが今日のように勝ち負けを争うものであったらデルフィの神様は決してスポーツを紛争解決の手段にはさせなかったはずである。
事実、古代ギリシヤ最大の競技大会であるオリンピックでは、その期間中、高度な政治論が戦わされ、その結果、都市国家間の平和同盟の
条約が交わされたという記録も残っている。
又、5日間のエケケイリア(大会期間中の休戦)以後3か月間も完全に戦闘を止めたという実績がある一方、その期間中も戦いを続け
罰金を支払わされたという記録もある。
従ってクーベルタン男爵「世界平和」のみを願い、その一手段として古代スポーツを選び、決してお互いが、その技を競う「競技」を
オリンピックの場に持ち込む気等毛頭無かったのだ。
然し、残念なことに「歴史は繰り返す」の喩が示す如く、古代オリンピックも回を重ねる度に優勝者には郷土の英雄として大きな特典が
与えられようになり、これが買収、八百長などの腐敗を招き、393年を最後にテオドシウス一世の勅命によって廃止されてしまった。
その古代オリンピックの精神を受け継ぎ、世界の平和を願った男爵は、古代スポーツの国際化と、それによる国際間の理解増進と平和を
目的として、公平と平等を旗印に古代スポーツを通して世界の人々の健康と道徳の資質を向上させ、相互の交流を通じて互いの理解の度を
深め友情の輪を広げることによって住み良い社会づくり、ひいては世界の平和維持と確立に寄与することをその主たる目的としたのだ。
然し、20世紀最大の発明といわれた近代オリンピックも世界の平和とは全く関係なく、愚かにもスポーツ関係者達やマスコミは勝負のみが
総てであるという信念の如きものを若者達の心の中に深く広く根付かせることに成功し、スポーツマンシップやフェアープレーの精神は
全く評価することなく、唯オリンピックに出場しメダル獲得のみに拘泥するようになった。
又、その様に洗脳された選手達は新たに主役となったオリンピック・スポンサーの「お抱え役者」となり、オリンピック入賞者のプロ
としての独立も進み、そのスポンサー収入も大きく平和の為の戦士としての意識等まったく持ち合わせぬままオリンピックは選手達
個人個人の見本市となりさがかってしまった。
この様に勝利至上主義の思想が顕著になり勝つためには手段を選ばずとする選手達の増加により「見つからなければ何をしてもいい」
という思いが広がり、その結果として「ドーピング問題」が大きく浮びあがってきた。
2009年度「世界反ドーピング機関(WADA)」の創立10周年の記念として、ストックホルムで開催された評議委員会の席上、
「遺伝子ドーピングが次の戦いの場となる」との警鐘を鳴らしている。
遺伝子ドーピングとは、遺伝子の操作によって人体改造を行うものだが、その外にも新種の違反薬物が次々と開発され関係機関は
その対策に躍起となっているのが実情である。
又、用具を使用する競技での「用具ドーピング」も各国ともその獲得するメダルの色と数に大きく関係するとあって力を入れ、
スポーツ用品メーカーの水面下での新製品開発競争も激しさを増しており、公平と平等を旗印としたクーベルタン
男爵の無念の程が偲ばれる。
以上私はこれ迄近代オリンピックの欠点のみを述べてきたが、然し、これまで純粋な情熱をもってオリンピックに挑戦し、栄冠を勝ち
とった嘗ての名選手達の業績は、それ相応に評価すべきであり、それらの選手達が若者に与えた夢と勇気と興奮と感動は計り知れない
ものがあったのも事実である。
然し、その反面、たった一握りのアスリートの成功例に触発され、その名声と富をも念頭に入れ未熟な指導者の下で大事な人生を
狂わせてしまった若者達が一人のアスリートの何万倍、何十万倍もいることを忘れてはならない。
その意味でもスポーツ関係者やマスコミ達の罪は大きい。彼等は一刻も早くこのオリンピックを、クーベルタン男爵が夢見た理想の
「平和の祭典」にすべくその舵を180度きるべきである。
スポーツ競技の世界一を決める大会は世界選手権という立派な競技大会がある事を忘れてはならない。
世界選手権の優勝者こそが真の世界一の選手なのだ。
以 上
(筆者:2001年度馬場馬術世界ランキング第82位)