夜半に嵐の吹かぬものかわ「(親鸞)
それなら何を先にして、何を後にすればいいのか常に優先順位をはっきりと決めて行動し、その上で一瞬一瞬を終わりだという
自覚をもって真剣に生きる必要がある。
そして一瞬一瞬が良い形で終わることができたら次の一瞬も必ず良い始まりになる。それを「当下一念」というのだと陽明学の
始祖中江藤樹は言う。
「徒然草」にも「死期は序を待たず。
死は前によりも来たらず。かねて後に追われり」、死は自分の思うような時に訪ねてくるとは限らない、
前から来ると思っていると突然後から襲ってくる」と。
何を隠そう、この私も去年の暮、ある会合の席上、突然に目の前が真っ暗になって気を失い、都内の救急病院の集中治療室のベッドの
上で気が付いた苦い経験がある。
そのまま意識が戻らなかったら今頃は火葬にされて21年10ヵ月続いた「馬耳東風」も262回で終わることになる。
いずれ人生は途中で終わる、人間は生まれる時も自分の自由意志でないと同様、死ぬ時も又自死でない限り自分の希望通りには
いかない。
それなら、せめて生きている今だけでも自分らしく生きてみよう、自分のやりたい事をやろうと思うのだが、然しそれは単なる
「我が儘」にすぎない。
自分らしくとは自分の個性を伸ばして人間らしく他人の痛みを正しく理解しつつ恕
の精神(思いやりの精神)をもって生きるということだと思う。
2010年、日本人の平均寿命は男79.64歳、女86.39歳だと言う、そして私は現在81.67歳、いつ死んでもおかしくない年ではあるが、
まだまだやりたい事が一杯ある。去年の暮の入院事件を契機にして、そろそろ死後のことを考える必要があると思い「老後は一日こして
成らず]という題で自分の考えをまとめてみようという気になったのだ。
何歳からを老後というのか、人それぞれ個人差はあると思うけれど、死は突然やってくる。
老後の心構えは早いに越しかことはない。
要するに、これからの余生を「枯れた人生のプロローグ」としたいのだ。
半世紀以上前から私の座右の銘は近代馬術の創始者ジェイムス・フィリス(1913年没)の馬の調教の極意「前進・前進・常に前進」だ。
数年前に死んだ仏教詩人坂村真民の詩に、
「すべてとどまると くさる
このおそろしさを知ろう
つねに前進 つねに一歩
空也は左足を 一遍は右足を出している
あの姿を拝してゆこう
人間いつか終わりがくる
前進しながら終わるのだ」
最後の前進しながら終わるのだが良い。
いつくるかわからない死に対して、人はその時まで常に人生に挑戦し続ける必要がある。その意味で生涯学習を心掛けることは良いこと
だ。然し、生涯学習には充電しつつスパークさせる必要がある、スパークさせてはじめて充電が生きてくる。
充電だけでスパークさせない生涯学習は無意味だ。
スパークさせることで自分自身を変えることが出来る。そこが人間の面白い処だ。
その柔軟さがあれば人は老いることはない。
然し、それには一にも二にも健康でなければならない。病身から建設的な発想は生まれにくい。
又、人は成功したら幸せになるかというと、そうではない。幸福感は決して成功によって得られるものではなく、幸福感が成功を
呼び寄せるものだ。
人間は幸福感を味わった途端に信じられないような力を発揮して創造性も豊かになり、やる気が湧いてきて能率があがり、結果的に
成功するのだ。
人は一つの目標を達成すると次の瞬間実に新しい目標が湧いてきて、どうしても次の目標に挑戦してみたくなってくるものだ。
結局、常に新たな目標に挑戦しつづけるところに幸福感が生まれ、生き甲斐を感じる。
成功は単なる結果にすぎない。
要するに、「前進・前進・常に前進」ということになる。
だから、自然に任せて老いてゆくのだけはやめよう。
少子高齢化によって、2010年には2.8人で一人の老人の面倒を見ていたものが、50年後には1.3人で一人の老人の面倒を見る羽目に
なるという。
厄介者扱いされながら若い者の世話になるのは真っ平御免だ。その為にも遅蒔きながら老後の準備をする必要がある。
人は長生きしたいと思う、然し老人にはなりたくないと思う。人生はそんなに都合良く出来てはいない。
如何にして自分の生を養ってゆけばいいのか、江戸中期の儒医、香月牛山
は、老人の養生、飲食、生活環境の心得等、日本最古の老人医療書「老人必用養草」を書いた。
それによれば、寿命の長短は天が左右するのではなく、自分の身持ち次第だと言う。その本の内容については長くなるので、
次号で述べようと思う。直下型地震がなければ。
以 上