養 生
(2012年2月号)

先月号で私は養生について養生とは生命を養うことだと書いた。
 貝原益軒の「養生訓」によれば、「なるべき程は寿福をうけ、久しく世にながらえて、喜び楽しみをなさんこと誠に人のおのおの願う所ならずや。 此の如くならむ事をねがはば先ず古の道を考え養生の術を学んでよくわが身をたもつベし、是れ人生第一の大事なり」とある。

今から二十数年前、馬に乗っていて心臓弁の腱索を断裂させて死にそこなったが、再び競技会に出場したい一心で安全な人工弁の手術を拒否 し、敢えて危険な心臓の形成手術に挑戦して見事成功、63歳にして馬術の国際大会復帰を果たしたが、その翌年の年賀状に私は、伊達政宗の
 “馬上少年過
  世平白髪多
  残躯大所赦
  不楽復如何“と書いた。
 年若いころは常に戦場にあって馬上ですごしてしまった。その結果ようやく世の中は平和になったが、その時にはもう白髪の老人になっていた。 これから何年生きるかわらないが、残された余生を大いに楽しもうと思う。きっと天も赦してくれるに違いない。

なかなか洒落た年賀状だと思っていたら、それを受け取った人々の反応は極めて手厳しく、お前が子供の頃から馬に乗り続けたのは唯、自分 が楽しむ為であり、その結果心臓の弁を切断したのは、まったくの自業自得というものだ。それなのに又これからも馬に乗って楽しもうというの か、それはあまりにも虫が良すぎるというもの、きっと天罰が下るに違いない、と。
 云われてみれば、ごもっともだが、然し、「莫迦は死ななきや治らない」の喩の如く、前にもまして馬に乗り彫刻を創り続けた結果、去年の11月 末、[日本ウマ科学会]から文化功労章を頂くことになった。

その受賞式は学会が毎年、東京大学で2日間にわたって開催する学術発表会の終了後に行われ、従ってその受賞の席には日本各地から獣医の 先生をはじめ本中央競馬会の方々や牧場関係者の方々が多数出席されて大いに面目を施した。ところがその後の立食パーティーの席上、 ワインを2杯飲んだだけなのに急に気分が悪くなり物が二重に見えてきた。
 咄嵯に この症状は20年前に経験したことのある心房細動(しんぼうさいどう) (競馬馬がレース中によく起こす病気)の発作に違いないと思い、部屋の隅にあった椅子に腰掛けたまでは覚えていたのだが、次に気が付 いたのは飯田橋の厚生年金病院の救急治療室のベッドの上たった。
 それから1週間、念のために身体のあらゆる個所、目や耳まで精密に検査してもらったが、どこも悪いところは無いという。
 然し、唯の貧血で約2時間も失神するものなのか、何とも腑に落ちないが、半信半疑で退院した。然し、何時また失神しないとも限らず心配な ので取り敢えず毎日3合は飲んでいた晩酌を止めて禁酒することにした。
 家人は、そんな強がりを言わずに「酒は百薬の長」というから晩酌を1合にしたらと言ってくれるが、私としては3年ぶり?2度目の禁酒という ことになる。
 どんなに良い薬でも副作用はあるもので、強い薬であればある程副作用は多く、従って強烈な薬は医師の指示に従って飲むように、酒もやはり 自分が自分の医師になって適当に用いる必要があるのだと思う。
 又、自分の身体は、例えてみれば何年も乗っている自動車のようなもので、そのクセを知り常に適切なメンテナンスをしていれば結構長い間故障 なしに乗れるものだ。
 それと同じで私の日本酒は決して「程々」が通用しないことは私自身が一番良く知っており、今回はなにしろ私の命にかかわることだけに断乎禁 酒に踏み切ったというわけである。
 然し、いくら命にかかわると言っても、私も今年で82歳、老い先は知れたもんだ。

それでも貝原益軒によれば「老後は一日を十日とし、十日を百日、一ヵ月を一年とし、喜楽してあだに日を送るべからず。常に日時を惜しむ べし。心しずかに従容として余日を楽しみ、怒りなく欲少なくして残躯を養うべし」とある。
 「老いらく」という言葉がある。これを「老い楽」とすれば、老いとは楽しいものだということになる。
 「老い楽の恋」何とも頬笑ましいではないか。
 又、蕪村の句に「菊作り 汝は菊の(やっこ)かな」 というのがあるが、この句が言わんとするところは、菊を作る者は菊が主人であり自分は菊に使われている奴隷のようなものだと思いながら、 実は菊に使われることが無性に楽しいということなのだと思う。

私も今年1月から5月の初めまで世田谷の馬事公苑で個展を開きながらその会場で馬の塑像を創っている。馬の奴隷となりながら、それを最 高の喜びとして。
 又、考えようによれば、人間の最高の楽しみというものは、「創作」にあるのではないだろうか、一体創作は「神」の仕事である。
 それが人間として出来る、これほど人間としての生き甲斐を感じることはないような気がする。
 やはり私はこれからも伊達政宗ではないが、きっと死ぬまで「()だ楽しまずして如何」 で行くことになるのだと思う。
 

以 上
 (参考:荻原井泉水著「益軒養生訓新説」)