バブルの最盛期、日本各地で芸術大学や美術館が続々と建設され、それに触発されるかの如く画廊の数も又うなぎのぼりに増加した。
ある美術雑誌で調べてみたら、日本全国の主な画廊の数は約3,000件、東京の銀座では一頃「バー」の数より画廊の方が多いとさえ
いわれていた。
結局、美術館やデパートの展示場約3,500ヵ所を加えると絵画や彫刻等を展示する場所は6,500ヵ所となり彫刻をとりまく制度的な環境は
十分すぎる程整えられたことになる。
然し、その反面芸術そのものは作品評価の基準が雲散霧消して、良いも悪いもどうとても言えるようになり、まさしく芸術そのものは、
ほとんど壊滅状態となり、何時芸術そのものが粗大ゴミとなっても可笑しくないと「芸術崇拝の思想」で松宮秀治氏は述べている。
私の馬の彫刻も家内に言わせると「粗大ゴミが粗大ゴミを作ってどうするの」と扱
き下ろす。
更に松宮氏はその本の中で「展示の暴走化」という表現を使い、今や芸術家達は自己自身の存在を作品化することをやめ授賞制度や栄典顕
彰制度の中で自己表現をしようと試みるようになった」。とも言っている。
自己自身の存在を作品化するとは言葉を変えると、芸術は徹頭徹尾自由な個性の表現でなければならぬはずなのに、賞を得ることに汲々
とする一方、似た背景をもった仲間内で研究を続け横並びを重んじ、他流試合を避け、限られた世界の中だけで満足し、事足れりをしている
状態のことで、この様に「純粋培養」の日本の芸術界は、いずれ内部からの思いあがりと、不遜から自滅の道を辿
るだろうと手厳しい。
まさに我が意を得たりである。
その松宮氏の考え方を十二分に弁えたうえで私は今月7日より4ヵ月間、
東京の馬事公苑で私の馬の彫刻展を開くことにした。
ノルウェーを代表する魂の彫刻家といわれたグスタブ・ヴィーゲラン(1943年没)が彼個人の彫刻公園を創ったように私も一応神戸の
三木市にあるホースランドパークに等身大に近い8頭の馬の銅像を設置はしたが、やはり馬術の殿堂、馬事公苑に私の馬の彫刻を集めてみたい
という夢を持っていたが、今その夢が十数年ぶりに叶ったことになる。
そして個展の挨拶状に私は次のように書いた。
「この個展の主たる目的は私かこれまで創った作品の粗探しの為の個展です。鍛え抜かれた優秀な芸術品ともいえるモデルが常に百数十頭も
いるこの馬事公苑を私のアトリエとして使わせて頂き、馬の躍動美をじっくりと観察し、その美しい馬体に触れ、肌の温もりや震えを
心ゆくまで楽しみ、私の作品の粗を見つけ、会場で修正しようと思うのです]と。
又、去年11月、東京大学で開催された「日本ウマ科学会」の第24回学術集会の席上私は全国の主たった獣医師・装蹄師及び牧場関係者を含む
競馬関係者の方々の前で、「ぜひ私の個展を御覧頂き、専門家の目線から忌憚のない御意見・御批判上を頂きたい」とお願いした。
要するに今迄の作品は私にとって総て習作であり、恐らく私は死ぬまで習作で終わるかも知れないけれど、それでも尚私自身少しでも
美しい馬を創りたいとの思いと駄作を後世に残したくないとしいう切実な思いがあるからだ。
絵画といわず彫刻といわず、芸術の根源は自己表現という祈りの感情だと思う。
美しい馬を見ながら一種の喜悦に満ちて創作し、眼から入ってきた美の感激を思いのままに表現現したり、自分自身決して手抜きをせず、
命の続く限り自分に忠実に死ぬまで自分自身を誤魔化したくないと思うのだ。
然し、恐らくこの思いは70年間も真剣に馬に乗り続けた者にしか理解出来ないものなのかも知れない。
又、前にも書いたが芸術とは徹頭徹尾自由な個性の表現でなければならず、伝統的に作者の思想を探ったり主義を強いるのは間違いであり、
如何なる場合でも作品をある主義に準じているか否かによってその価値を定めるのは作者の個性を無視し侮辱することに他ならない。
個性の無視、侮辱は芸術家の存在そのものの無視であり侮辱である。>br?
世間や審査員の目を意識し勇敢に自己の個性を表現できない者や、他人の過去の彫刻家の模倣のみで個性のない者は彫刻家失格である。
従って今回私か意見を聞きたいと思う人達は彫刻家や美術評論家ではない、あくまで馬の専門家達の意見であり、彼らの意見を尊重しつつ
私自身が納得して自作を修正し又は破棄するのも具象彫刻家の自己表現の一つだと思うからであり、少しでも私自身悔いを残さぬ為と同時に
今後の制作の肥やしにしたいからである。
その昔、茶道の稽古場に「恥掻処」という額を掲げて
子弟を教えた師匠がいたと聞く。
「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」というものだ。
そして此のような個展を開く旋毛曲がりが一人ぐらいいてもいいじゃないか、
自分は自分、人は人、と私自身自分に言い聞かせたというわけである。
それにしても4ヵ月間、馬事公苑に通うのは82歳の老人にしてはかなりの重労働だが、健康に注意し、心と体を一体にして生を養い
(養生)常に自分と向き合い、与えられたチャンスと命を丁寧に生きようと思っている。
この一年、決して悔いのないように。
(参考「芸術崇拝の思想」松宮秀治著、「彫塑余滴」朝倉文夫文集)
以 上