「光
陰矢の如し」というが、年をとってからの一年は、矢の如しというより、むしろ「光の如し」といいたくなるほど早い。
つい先日、正月を迎えたと思ったのに、もう師走だという。
誰が読んだか「それみたか 常が大事じや大晦日」という句が頭に浮かぶ。
今年の正月、「自分では元気だ元気だと思っていても、何時、御陀仏になっても可笑しくない年だよ」と孫に言われ、
早速、護法寺の中島住職の「今しかない」という書を書斎に掛けて、来年こそは決して悔いの残らぬよう、一日一日を大切に
生きようと決心した。
それでは、この一年はどうだったか、改めてこの一年を振り返った時、別に取り立てて書く程のことは何一つしておらず、
唯々、東日本大震災による津波と原発事故に振り回されただけの一年だったような気がする。
唯、今年は或るポンプメーカーのメンテナンス関係の協力店会の役員を引き受けたお陰で、仕事に
託けて広島・熊本・新潟と有名な温泉の湯に浸かり、美味しい肴で
好きな地酒を飲むことができて、いささか寿命が延びたように思えただけだ。
又、この役員の任期は2年なので来年も今年のように各地区毎で開催する総会や講習会等の会場を、それぞれの地区の温泉場にして、
あわよくば命の洗濯をしてやろうと密かに考えている。
然し、それにはやはりそれに見合うだけの働きをして少しでも協力店の人達のお役に立だなけれ
ば申し訳ないと殊勝なことを考えた。
そこで、「働く」とは一体どういうことなのか一応私なりに頭の中を整理してみようと思う。
「は
たらく」とは、はたを楽にすることだと言った人がいる。
そうだとすると、社会的貢献等と大それたことは考えず、取り敢えず私か働くことによって私の家族や会社の枇員が少しでも楽に
暮らすことができれば、それが一応働くということなのではなかろうか。
要するに私か働くということは家族や社員に対する奉仕なのだと思う。
又、働くという字は人偏に動くと書く、人間としての自覚をもって動くことが働くということの基本なのだ。
然し、この働くということには実は本質的にまったく性質の異なる二つの種類がある、即ち、レーバーとワークである。
レーバーの語源はラテン語のラボール(Labor)で、これは本来奴隷の働きを意味し、働きたくないものを強制的に働かせるという
意味がある。
従って、レーバーには常にどうしたら働かなくて済ますことが出来るかという考えがつきまとい、隙あらはサボろうとする気持が働く、
要するにこれは労働なのだ。
一方、ワークは古代ゲルマン語の(Wark)を語源とし、働くことに使命感をもち、責任を以って自ら進んで働くことを意味する。
即ち、ワークは端(第三者)を楽にさせるという喜びと真価感をもって
動くことであり、決して他人の苦しみの上に胡坐をかいて楽な生活をしたいために動くのではない。
他人の苦しみの上に胡坐をかいて楽しみたい為に動く族
「我楽苦他」(何の値打ちもない雑多な品物、道具)にすぎない。
自分の周囲の人達の為に誠心誠意働き、その人達を幸福な気持ちにさせることが出来たら、その人達の幸福感のお余りのお
裾分けを頂いて、それが自分の幸福なのだと割り切ることだ。
レーバーは苦痛だが、ワークは喜びでなければならない。
序(ついで)ながら仕事上のお得意様とは、商取引によって相手から利益をしぼりとるのではなく、得意とはお客様の
意「心」を得ることである。
お客様の意のあるところを汲みとって、より良い商品を薄利で、又より良いサービスを提供し信を得ることなのだと思う。
お得意様の信を得れば自然と商売は繁盛し「信」をうる「者」は「儲」かることになっている。
唯、いったん信者にしてしまえば、後は何をやっても儲かるという類の宗教はオウム真理教のよ引こ必ず悪銭身につかず
ということになる。
レーバーとワーク。
奴隷となって使われるか、それとも勤労を天職と心得て、そこに生き甲斐を見出して歓喜に満ちた人生を送るか、
それは各自の自覚を待つより他はない。
以上、今月は柄にもなく偉そうなことを書いたが、これは他ならぬ私自身の来年に向かっての決意に他ならず、この拙文が活字になって、
いろいろな人達に読まれることになると、滅多なことはできなくなる。
要するにこれを「自縄自縛」というのだ。
以 上
(参考 稿本隋暢著“りんどう”)