東日本大震災、それに伴う大津波と原発事故、それに追い打ちをかけるかの如く日本列島を襲った12号、15号台風。
国内の災難だけで手一杯の日本を更に腰抜け外交と見くびっての領土侵害や欧米諸国の経済危機のあおりを受けての円高問題等々、問題山積の
借金大国日本だというのに、此の国の腰抜け政治家達は博徒の縄張り争いよろしく揚げ足取りの政権争いに血道をあげるのみでその無為無策振りに
は、ほとほと呆れるばかり。
この様な八方塞がりの蒸し暑い日本の夏に一服の清涼剤を投与してくれた「なでしこジャパン」。
たしかに彼女達の活躍は特筆に価する快挙に違いないが、これでもか、これでもかとばかり各方面からの表彰の嵐に気を良くしたのか、
コンビニの宣伝までするに至ってはいささか興醒めの感を否めない。
その様な事になるからオリンピック等のイベントはスポーツ選手達の見本市だと言いたくなるのだ。
そもそも「なでしこ」「撫子」は単なる秋の七草の一つにすぎない。
撫子の上に大和の二文字をつけて「大和撫子」となってはじめて日本女性の美称となるので、「なでしこジャパン」でも一応言わんとする意味
は通じるが、私には何となくシックリとこないネーミングだ。
そこで今回は、その「大和」にこだわって、不甲斐無い政治家達を念頭に置きながら「大和魂」「大和心」こついて書く事としよう。
そもそも「大和」とは今の奈良県の天理市付近の地名で、初めは「倭」と書いていたが元明天皇の御代に倭に通じる「和」に「大」の字を冠し
て「大和」とし、日本国の異称としたのだ。
更に日本民族固有の精神を「大和魂」と呼んで勇猛で潔い精神をその基本とし、その日本民族の精神は次第に武士道の精神に
受け継がれていった。
その武士道とは先祖代々受け継がれた武士階級からさまざまな経路を辿って大衆の間で酵母として発酵し日本人全体に道徳律の基準となり、
元来エリートである武士階級の栄光として登場したものが、やがて国民全体の憧れとなりその精神となっていった。
そして、武士道の精神を表す「大和魂」という言葉はついにこの日本人の民族精神を象徴する言葉となっていった。
“敷島(日本)の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花”(本居官長)
“かくすれば かくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂”(吉田松陰)
何事も事なかれ主義の今の政治家達に、朝日に匂う山桜や松陰の心を植えつける事は不可能だ。
今のような非常時には昭和初期の浜口雄幸や井上準之助のような武士道の精神、真の大和魂をもって、
「百万人といえども吾行かん」という気概の持主の出現が、どうしても必要なのだ。>br>
又私は、武士道の基本精神とは勇猛で潔い精神だと書いたが、その精神こそが「義」であり「義」とは不正や卑劣な行動を自ら禁じ、
死をも恐れない正しい義、即ち「正義」を遂行する精神の事である。
参考までに義のつく熟語を調べてみると大儀・忠義・仁義・恩義・信義・義理・義務・義憤・義侠・義士等々、いずれも人として、
行う正しい道にもとづいていることがわかり、いかに日本人の精神の中にこの「義」が深く根付いていたかがわかる。
武士道をもって任ずる武士がこの「義」を踏み外せば「武士道に悖る」
「卑怯者」として場合によっては切腹を命ぜられる厳しい掟も存在していた。
敵前逃亡をして、それを恥とも思わぬ政治家達には当然切腹を命ずるか、然らずんば自ら腹を切
って恥を雪ぐべきなのだ。
それ「政治に命を賭ける」といって当選した政治家達の身の処し方だと思う。
我々は今でも不正を行なった人や卑怯な振る舞いをした人に対して「卑怯者」「恥を知れ」と吐きすてる。
新渡戸稲造はその著「武士道」の中で「武士道はいまなお私達の心の中にあって力と美を兼ね備えた生きる対象である」と書いている。
果たして今日の日本人の心の中にこの「武士道」の精神は残っているだろうか、悲しいかなその答えは「ノー」である。
日本人の道徳律は元来儒教に負うところが大きいが、孔子は「五常の徳」を主体として「人の倫」を説いている。
その五常の徳とは仁(思いやり)・義(正義)・礼(礼儀)・知(叡智)・信(信用)の五つで、中でも武士道は「義」をその根本に
おいて「治世の術」とした。
何故ならば、もしこの正義が守られなければ嘘が蔓延し、不正がはびこり平穏な秩序ある社会を築く事が不可能となるからだ。
かつて西郷隆盛はいみじくも言っている。
「政道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大さに恐れ、和平を乞い、
惨めにもその意に従うならば、ただちに外国の侮辱を招く。その結果、友好的な関係は終わりを告げ、
最後には外国に仕えることになる」と。
今改めて武士道の精神・大和魂を我々の心の中に取り戻そうではないか。
さもないと、西郷の言うように我々の国日本は近い将来、どこかの国の植民地に成り下がる事必定である。
以 上
参考(新渡戸稲造著・岬龍一郎訳「我が道」 PHP文庫)