体  育
(2011年10月号)

天高く馬肥ゆる秋、と同時にこの10月は国民体育大会の季節でもあり、今年81歳になる私の 青春時代に実に多くの思い出を残してくれた大会でもある。
 今から65年前、終戦の翌年の1946年から始まった国民体育大会(国体)は、第1回目から22回までの1968年まで に大学卒業後の駆け出しのサラリーマン時代の数年を除き合計14回、東京都代表として出場した。

国体の第1回から3回までは開催県側の用意した貸与馬で出場したが、第4回からは全て自分の乗る馬を貨車に 積んで馬と一緒に日本各地の秋の国体競技場を転戦したものだ。
 旧陸軍の兵隊が穿いていた白の木綿の靴下((カカト) のない唯の真っ直ぐな袋)の中に遠征中自分が食べるだけのお米を入れて、その靴下を長靴の中に スッポリと入れて少年の部に出場した京都大会。(第1回)
 宿舎が旧兵舎あとの体育館のような板の間で、支給された寝具は旧陸軍の使用したカーキ色の薄い毛布が2枚、 あまりの寒さと身体の痛さに堪えかねて馬小屋で寝藁を敷いてその上に2枚の毛布と寝藁をかけて寝た金沢大会 の3日間。(第2回)
 持参の食糧が無くなり、空腹のあまり東京に帰る途中、岡山の親戚の家に転がり込んで、ご飯を腹一杯御馳走 になり、握り飯を貰って帰った久留米大会。(第3回)
 馬輸送のため、馬と一緒に丸2日間貨車の中で寝泊りしたので全身 馬糞(バフン)と馬の尿にまみれて貨車輸送の途中、 駅構内の便所に行ったついでに一休みしようと駅のベンチに腰を掛けたら、横にいた戦争浮浪者に 「臭いからあっちに行け」と追い払われた広島大会。(第4回)
 大障碍飛越競技前の準備運動中、馬の踏切が狂って人馬とも転倒して馬の下敷きになり膝の皿に (ヒビ)が入ったまま出場して、どうやら2位に なったものの、ゴールした後、足が腫れあがって長靴が脱げず、長靴と乗馬ズボンを切って足を出し膝 の皿の割れ目に溜まった血と漿液(ショウエキ) を毎日注射針で抜く羽目になった東京大会。(第5回)等々。

書き出すと切りのない懐かしい国体。
 その国体も最初のうちは、どの開催県も全国の国体選手を差別なく県民こぞって歓迎してくれ、お祭りムード が一杯の楽しい大会だった。
 然し、1964年の東京オリンピックが決定した頃から、各県の国体優勝争いが激化し、私か東京都の監督として 出場した新潟国体で東京都が馬術の団体優勝したのを最後に私の記憶に間違いなければ総て開催県が馬術の 団体優勝を(サラ)っている。
 もっとも、開催県だけが全種目にエントリー出来るという有利な点はあるものの、それにしても馬術の上手な 国家公務員や教職員を一時的に開催県に転属させたり、莫大な県の予算で高額な乗馬を外国から購入したりと、 何故それ程までして団体優勝したいのか理解に苦しむ。
 国体はその設立の趣旨が全日本選手権と違い、国民の為の体育大会の名が示す如く、「体育」とは 「健全なる身体の発育を促し、運動能力や健全で安全な生活を営む能力を育成し、人間性を豊かに することを目的とする教育」と辞書にあるように、決して勝ち負けを争い、技を競い合うことを主目的と する大会ではなく、オリンピック同様、参加することに意義のある大会の筈である。

近代オリンピックに見られるような勝負にこだわるあまり生ずる数々の弊害、即ち、一般に言われるドーピング ・遺伝子ドーピング・用具ドーピング・暴力(フーリガン)・スポーツマンシップやフェアプレーの精神の 軽視・人種差別・経済的不平等・国別メダル獲得競争・五輪参加者の男女比と性的差別・スポーツとHIV などの健康問題等々、その弊害を数え上げればきりがない。
 来年開催されるロンドン五輪では元来技を競うことの好きな国民だけに心配な面があるが、ぜひ、 スポーツマンシップを発揮してフェアプレーの精神をもって五輪の運営にあたってもらいたいものだ。
 五輪はあくまで世界平和の為の祭典であって、決して単なるスポーツの祭典ではないのだから。

体育とスポーツとの違い及びオリンピックと世界選手権との違いについて私は昨年小冊子にまとめたが、 選手もスポーツ関係者もマスコミも是非この違いをはっきりと理解して行動しない限り近代オリンピックは 「儲かるイベント」、「金儲けの為のスポーツ大会」、「スポーツ選手の見本市」になりさがること 必定である。
 古代オリンピックは都市国家間の平和維持の為の一手段としてスポーツを選んだに過ぎないとい うことを忘れないで欲しい。
 そのあたりを考慮してか本年7月15日、日本体育協会創立100周年の記念行事として、今後100年の スポーツ界の発展を目指して「スポーツ宣言日本〜21世紀に於けるスポーツの使命〜」が採択された。
 日本体育協会と日本オリンピック委員会の前身である大日本体育協会の創始者である嘉納治五郎は、 その「趣意書」で国民体育の振興とオリンピック競技大会参加のための体育整備と記しているが、当時の オリンピックは世界平和維持の為の祭典であり、従って「参加することに意義のある大会」だったのだ。
 それでは、今回採択された「スポーツ宣言日本」の要旨を御披露しよう。

 「ス ポーツは、自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の文化である。この文化的特性が十分に尊重されるとき、 個人的にも社会的にもその豊かな意義と価値を望むことができる。現代社会におけるスポーツは、それ自身が 驚異的な発展を遂げたばかりでなく、極めて大きな社会的影響力を持つに至った。今やスポーツは、政治的、 経済的、さらに文化的にも人々の生き方や暮らし方に重要な影響を与えている。このスポーツの力を、 主体的かつ健全に活用することは、スポーツに携わる人々の新しい責務となっている。
 21世紀における新しいスポーツの使命を以下のように宣言する。
 1.
 
あまねく人々がこうしたスポーツを差別なく享受し得るよう努めることによって、 公正で福祉豊かな地域生活の創造に寄与する。
 2.
 
自然と文明の融和を導き、環境と共生の時代を生きるライフスタイルの創造に寄与する。
 3.
 
スポーツにおけるフェアプレーの精神を広め深めることを通じて、平和と友好に満ち た世界を築くことに寄与する。
 そしてスポーツに携わる人々は、これからの複雑で多難な時代において、このような崇高な価値と大いなる 可能性を有するスポーツの継承者であることを誇りとし、その誇りの下にスポーツの21世紀的価値の伝道者と なることが求められる。と。
 正に我が意を得たりの感があるが、果たして現代のスポーツ選手を含むスポーツ関係者達が、この崇高な 理想を正しく理解し、スポーツの21世紀的価値の伝道者となり、せめて近代オリンピックを平和の祭典と 理解し得るだろうか。私の答えは「ノー」である。

何故ならば、現代オリンピック憲章には、「オリンピック精神に基づいて行われるスポーツを通して、青少年を 教育することによって平和でより良い世界づくりに貢献すること」と明記されており、更に「オリンピック精神 に基づくスポーツ文化を通じて世界の人々の健康と道徳の資質を向上させ、相互の交流を通じて互いの理解の 度を深め、友情の輪を広げることによって住み良い社会をつくり、ひいては世界平和の維持と確立に寄与する ことをその主たる目的とする」とあるにも拘らず立派なスポーツ宣言の舌の根も乾かぬ内に、その衣の下から オリンピックだけは別だと言わぬばかりに「国益重視」という鎧がチラついているからである。
 綺麗事では済まされない色々な事情があるにせよ、やはり残念だが近代オリンピックは「平和の祭典」 「真のスポーツの祭典」ではなく「金儲けの為の(ニセ) スポーツ大会」ということなのだろう。
 近代オリンピックの創始者、クーベルタン男爵の最後の言葉、「もしも再びこの世に生まれたら、 私は自分からつくってきたものを全部壊してしまうだろう」と言った無念の言葉が思い出される。

以 上