仕合わせ
(2011年5月号)

マグニチュード(M)9、震度7という未曾有の大地震、そして大津波による被害、さらに原子力発電所の 脅威が追い討ちをかけてきた今回の東日本大震災。
 戦後日本が初めて直面する広域型の大規模災害だ。
 何物にも替え難い大切な家族を、そして家財を、友人を、仕事を、被災者の人生までも根こそぎ奪 っていった大震災。
 被害にあわれた方々の心情を思うと慰めの言葉もない。
 被害者の一人が(つぶや)いた、 「なにも悪い事をしていないのに」。
 「善因善果、悪因悪果」「因果応報」の法則は一体どうなってしまったのか。
 文明が進めば進むほど天然の暴威(ぼうい) による災害はその激烈の度を増してゆく。
 ラジオのスイッチを(ひね)ると 必ずと言っていい程日本各地から「今は苦しいでしょうが、春は必ずやって来ます。 それまで頑張ってください。私たちも応援しています」等と言う類の激励メールが流れてくる。

山本周五郎はその著「虚空遍歴」の中で「自分は平穏無事な温かい生活をしていながら、不幸や絶望や死に 追いやられる人達の気持ちを語るのは絶対に誤りである」と言っている。私もその説に賛成だ。
 然し、心ないメディアは悲惨な映像を撮ろうと最愛の我が子の安否が分からず悲嘆にくれている母親の顔を 覗き込み「お気持ちは良くわかります、何か一言」とマイクを向ける。
 また、各種の記者会見では、明らかに無知で不勉強な記者が偉そうな態度で口汚い取材を展開し、記事や 報道も明らかに自分でも理解していない話しを、ひたすらショッキングに表現して不安を煽り、原発の爆発 でも事態が一応沈静化した翌日に「原発爆発」等と大見出しで話しをむしかえす。
 テレビも何とかして放送時間を埋めようとショッキングな映像を繰り返し流し続け、いたずらに 不安と絶望を拡散させている。

反面、この様な大災害の衝撃と悲嘆の中にあって被災した人達が秩序を失わず、規律を保って黙々と行動している姿に、 世界中の人々は驚きと敬意を示し惜しみない称賛をおくっている。
 「行方が分からない家族がいる人に対して大変に申し訳ないけれど、私達は良い方だと思う、唯々神様に 感謝するばかりです」、大船渡市の火葬場で犠牲になった親の火葬に立ち会った或る女性はこう語る。
 全てを失って着のみ着のまま、やっと避難所に辿り着き、ボランティアが差し出す「おにぎり」に向かって 「有難う御座います」「御苦労様」と合掌する老婆。
 何日ぶりかで仮設の狭い風呂に入り、内心の悲しみを堪えて「極楽、極楽」と微笑む老爺の姿には涙を禁じ えない。
 「もっともっと大変な人達が大勢おりますから」と自分のことはさておき、より悲惨な人の事 を思いやる被災者。
 申し訳ないが仏教とかキリスト教というような確固たる信仰心を持っているとは思えない農漁村の人達の この美しく豊かな心、常に人の気持ちを思いやる 「(じょ)」の精神はどの様にして彼等の心の 中に宿ったのだろう。

かつて明治・大正の有名な教育者、新渡戸稲造は、ベルギーの著名な法学者、ラブレー氏から「あなた方の 学校では宗教教育というものがないと言われたが、それでは、あなた方はどうやって子孫に道徳教育を授ける のですか」と質問されて惜然としたと彼の名著「武士道」の序文で述べているが、道徳教育というものは 「こうあるべき」と上から無理やりに押し付けるべきものではない。
 宗教心とは人生に対するその人自身の解釈以外の何物でもない、この度のこの大災害を見るにつけ、 宗教心とは(いのち)(はかな)さの自覚が基礎になってい るように思えてならない。

外に向かつて「お蔭様」内に向かつて「すみません」「有難う御座います」、この謙虚な裏付けこそが、 どの様な環境をも浄化する。
 一時の感情に流されることなく諦める(明らめる)、そして納得する、明らめの真の姿、純粋な感情程 美しく強いものはない。
 日本人の心の中には生まれながらに孔子のいうところの人間として最も大切な「恕」の精神と、 神道(祖先崇拝の精神、わかち合いの精神、一致団結の精神)の精神が本質的に備わっているのだ。
 幸福の「幸」という字に「せ」を付けて「しあわせ」と言うが、本当は 「(つか)え合う」と書いて「しあわせ」 と読むのが正しい読み方だと思う。お互いに仕え合う処に真の幸福が訪れるのだ。
 この様な時期に不謹慎な様な気がするが、最後に私が好きで酒に酔うと 口三味線(くちしゃみせん)でよくうたう 都々逸を御紹介しよう。
 “鮎は瀬にすみ、(とりや)は木にとまる
  人は情の淵に住む
  根の無い浮き草、 根の無い浮き草

蛍り一夜の宿をかす”

以 上