一 年 の 計
(2011年1月号)

新年明けましてお目出とう御座います。
 お蔭様で平成2年5月から掲載して頂いている「馬耳東風」も21回目のお正月を迎えることが出 来ました。
 「元日や昨日の鬼が礼に来る」

大晦日の一夜が明けると貴賎貧富、老若男女の別なく、お目出とう、お目出とうと祝い合う。
 めでたいを何故目出たいと書くのか、それはサイコロを振って、よい目を出すことから転じて 幸運にめぐりあうことであり、芽出たいと書けば春になって一陽来復、陰がきわまり陽がかえり草木 の芽が萌えいでて、花は紅、柳はみどりの好季節、人間にとっては幸福のよろこびであり感謝の気持 ちということになる。
 年の初めにこの言葉を交わすのは、お互いに幸運の芽が出る様にとの祈願であり祝福でもあるのだ。
 然し、今年5月には81歳となる老人としては、この年齢まで生かせて頂いたという感謝の気持は あるものの、しゃれこうべを青竹の先に刺して麻の法衣に草鞋ばきで、「御用心、御用心」と大き な声でどなりながら、「門松は冥土の旅の一里塚 目出たくもあり目出たくもなし」と声高らかに 歌い歩く一休和尚の考えに相鎚を打ちたい気分だ。
 けれど、当の本人は皮肉たっぷりに、およそ此の世の中にしゃれこうべ程目出たいものはない 「にくげなくこのしゃれこうべあなかしこ、目出たしかしこし これよりはなし」
 この髑髏(どくろ) は骨ばかりで肉気(憎気)はまったくなく、唯残二ているのは目の出たあとの穴ばかり目出たいとは この事じゃろう、正月だ、目出たい目出たいといって人々は皆暢気な事を言っているが、人間何時このような どくろとなるかわからない、うかれ騒ぐのもいいかげんにせんか!と喝を入れたくなったのだろう。

人の一生は三つの呼吸の間にありという、次の瞬間にもどくろにならないとも限らない、人の運命 「小年老い易く 学成り難し」と小学生の頃父に教えられた詩吟の文句、痛い程わかっていながら「来年は 来年はとて暮にける」で結局何一つ取り立てて自慢の出きる事もせずに80年が過ぎてしまった。
 しかし、身体のいろいろな所が故障しだして死の影が目先にちらつきだしてくると、今年からは 残りの人生を毎日毎日真剣に生きることにしようとつくづく思う。
諸悪莫作(ショアクマッサ)  衆善奉行(シュウゼンブギョウ)  自浄其意(ジジョウゴイ)  是諸仏教(ゼショブッキョウ)」。
悪い事はせず、善い事を実行しよう、自分の心を清めるというのが仏陀の教えなのだ。
 あたりまえといえばあたりまえだが、それを実行するのはむずかしい。
 唐の詩人、白楽天が「仏教とは何か」と道林和尚に問うた時の道林和尚の返事がこの「諸悪莫作」だ。
 「そんな事は3歳の子供でも知っている」と白楽天が言うと、道林はすかさず「3歳の子供でも口では言 うが、80歳の老人でも実行は出来ない」と言った。

まさにその80歳の老人がこの私というわけだ。
 難しい理屈を言うより、何よりも悪い事はせずに善い事を行うという簡単な実行が仏教なのかも知れない。
 人に迷惑をかけ、後で後悔するのが悪であり、人に利益をもたらして、それを自分でも幸福と感じるのが 善なのだ。
 人に害を加え、その時は得をしたように思うが、あとで必ず後悔する。
 わかちゃいるけど止められないのが人の常。
 なんとか今年の暮には満足のいく一年を過ごす事が出来たと胸を張りたいものだ。
 もう後がないとばかり、あれもやろう、これもやろうと欲深く考えず、今年は「諸悪莫作 衆善奉行」 に徹してみようと思う。
 道元禅師ではないが、「仏道をならうは自己をならうなり」だ。

昔の人の言った言葉ばかり引用して恐縮だが能楽師、世阿弥が能楽の秘伝として書き残した「花鏡」に 「当流ニ万能一徳ノー句アリ初心不可忘 コノー句、三条ノロ伝アリ、是非ノ初心忘ル可カラズ、 時々ノ初心忘ル可カラズ 老後ノ初心忘ル可カラズ、コノ三句、ヨロシクロ伝スベシ」というのがある。
 是非の初心、時々の初心、そして老後の初心、この三句は総て常に忘れてはならないと思う、是非の初心、 時々の初心を忘れないことが老後の初心に繋がるのだ。
 先月号に私は我と我が尻を鞭うつと書いたが、馬は尻を鞭でたたかれて、いやいや走るより、鼻先に人参を ぶらさげた方が遥かに気持ち良く走れるものだ、ひとつ今年は難しい事は考えず、「諸悪莫作」という人参を 鼻先にぶらさげて楽しい年にしようと思っている。

今年の年賀状に私は“浜までは 海女も蓑着る 時雨かな”と書かせて頂いた。
今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

以 上