黒澤映画に息づく馬へのオマージュ
(2010年9月号)

今年は黒澤明監督の生誕100年とかで、「黒澤映画に息づく、馬へのオマージュ」という題で、馬乗りとして見た 感想を書いて頂きたいという依頼が或る雑誌社からあった。
 それなら、もう一度映画を見ないことには何とも言えないと答えたら、早速「七人の侍」と「影武者」のDVDが 送られて来た。
 「七人の侍」は昔懐かしいモノクロで私が大学の馬術部の最上級生だった昭和26年に世田谷の東宝撮影所の 近くにあった西風会という乗馬クラブで一応馬に乗れるエキストラを募集していて私達にも協力の要請があり、 馬術部の部員を数名貸し出した記憶がある。

ところが監督の要望で撮影の都合上、どうしてもこの場所で馬を暴れさせてから人馬ともに横 倒しになるシーンを撮ることになった。
 然し、その様な危険な役を学生にやらせるわけにはゆかず、結局「西風会」の職員の桜井氏(通称トシチャン) に押し付けることにした。
 仕方なく彼は今までに一度も 大靱銜(タイロクハミ)という鋭い (クツワ)をつけた経験のない馬にその衡をつけて、 いきなり拍車で思いっきり馬の腹を蹴り上げると同時に片方の手綱だけを強く引いて馬体をひねりあげたところ、 旨い具合に馬が「いやいや」をしながら横倒しになったので監督が非常に喜んだという話を聞いた。

いかに映画の為とは言え、馬にとつては実に迷惑な話しで、馬を愛する者としては許すわけにはいかないと 憤慨したことを思い出しながら、それでも数十年ぶりにトシチャンの雄姿(?)を見て懐かしくなり平塚にいる 彼に電話をして旧交を温めることが出来た。

懐かしい男と言えば、もう一人北海道で牧場経営の傍ら「影武者」の撮影の為に200頭もの馬を調達し、自分でも 馬術指導に情熱を燃やした今は亡き愛すべき白井氏がいる。
 彼は実に口の悪い男で誰彼かまわず傍若無人に振舞っていたが、彼を偲ぶ会を都内のホテルでやる話しが出た時、 彼の実の兄さえ、「人は来ないと思うから無駄だ」と言っていたのに300人近い人が出席したのは、 やはり彼の純粋さに惹かれた人が多かったからだと思う。
 この「影武者」の時も世田谷の「アバロン乗馬学校」で騎馬武者役のオーディションを行ない、乗馬学校職員の 曽根氏も審査員の一人だったのが結局、彼も本多平八郎役で出演することになり北海道や諏訪湖畔で約40日間 かけて白井氏と一緒に俄騎馬武者達を特訓する羽目になった。

その結果、今回改めてDVDを見る限りでは隊列を組んでの行軍や 片手手綱(カタテタヅナ)で刀や槍を振り かざしての駈歩もなかなかのもので、これは正しく彼等の特訓の成果に違いない。
 私の経験からしても、合成樹脂製で木製よ若干乗りやすいとは言え、直ぐに尻の痛くなる 和鞍(ワグラ)に跨り、これまた合成樹脂製の鎧と兜を身に (マト)い旗差し物を背中にっけての襲歩は なかなか出来るものではなく和製西部劇を見る思いがした。
 然しその反面、馬の身になってみると俄武士を背中に乗せての突撃では、恐らく背中や脚に非常な負担が かかって馬の体は満身創痍であったに違いない。馬が言葉を喋れないのをいいことに身勝 手にも程がある。

それにしても、何といっても圧巻な影武者の最後の壮絶な長篠の合戦での馬屍累々の場面である。
 傷つき、もがき苦しむ馬、平首(ヒラクビ) をねじまげて苦しそうに天を仰いで力尽きる馬、必死の思いで立ち上がり、すぐに前脚を折って崩れ落ちる馬、 四つ脚を高く天に向けて虚空を掴むかの如く事切れる馬達。これが役者なら正しく迫真の演技というところだが、 この馬達の姿は決して演技ではない。強い麻酔薬を打たれて正真正銘の断末魔の姿なのだ。
 西部劇では人馬が、もんどりうって倒れるシーンはあってもこの様に悲惨なシーンは目にしたことはない。
 然し、この馬達の最後の姿こそが映画「影武者」の大成功の最大の鍵だと私は思う。
 130頭の馬達は正しく「犬馬の労」もいとわずに全力で俄騎馬武者達の意を体して働いたのだ。

「神   神は最初に男を創つた。そして思い直して次に女を創った。時を得て、男の勇気と気概と、女の気品と美しさと 優しさを兼ね備えた馬を創った」。これはブラジルで古くから語り継がれている物語の一節である。
 群生する葦の影から壮絶な戦場の悪夢を悲痛な眼差しで見つめる仲代達矢演ずる影武者の最後のシーン、 私にはどうしても白井氏達が集めた馬達こそが本当の影武者、いや影の立役者だったと思えてならない。
 “無残やな兜のしたのキリギリス”

以 上