懐かしき泥棒
(2010年8月号)

 「今 から約60数年も前のこと、ある朝新聞を取りに行った父が玄関横の植込みの前に皿に乗った数匹の車海老が 置いてあるのに気が付いた。
 大東亜戦争の敗戦後間もない頃、我が家の食糧事情も御多分に漏れずひどいもので、広くもない庭を耕して 薩摩芋や何種類かの野菜を栽培して何とか飢えを凌いでいた時代のこと、滅多にお目にかかれない活きの良い車海老を 見付けた途端、何の疑いもなく、恐らくこれは親戚か親しい友達が朝早く訪ねてきて、私達を起こすに忍びず玄関先 に置いて帰ったに違いないと思い込んでしまった。
 いずれそのうちに連絡があるだろうと思っていたが、夕方まで待っても何の連絡もない。
 生物(ナマモノ)のことでもあり捨てるにはあまりに勿体無 いと有難く頂戴することにして、その夜は思いもかけぬ大御馳走に親子3人舌鼓をうったというわけである。

ところが、その数日後、二人の巡査と一緒に近所の鮨屋の亭主と一人の若い男が家にやってきた。
 その若い男は泥棒で、家から20m程離れた大道路にある馴染の鮨屋に忍び込み、冷蔵庫から車海老を盗みましたと 白状したという。
 そして巡査の言うには、首尾よく車海老を盗った泥棒は鮨屋の裏口から外に出たところ、運悪く前から新聞配達が来る のを見て止む無くすぐ前の細い路地が袋小路とも知らずに逃げこんだという。
 ところが新聞配達も又その路地に入ってきたため、逃げ場を失った泥棒は新聞配達に「私はこの家の知り合いの者 だがまだ朝が早いので取り敢えずここにこれを置いて帰ります」と言って ()()うの 体で逃げ出したと言うのですが、その話しは事実でしょうかと言う。
 更に、もしその話しが本当なら、その車海老をお宅ではどうされましたかと質問された。
 そこで初めてあの車海老が近所の鮨屋から盗んできたものだとわかったが後の祭り、知りませんとも言えず 大変に気まりが悪かったが正直にその晩美味しく頂きましたと白状した。
 当然その車海老の代金はその場で鮨屋に支払って目出度く一件落着。
 飽食の時代の今日と違い、生きてゆくのに必死だった戦後間もない頃の話し、新鮮な海の幸等滅多に手に入らぬ時代の事、 今日(こんにち)なら気持悪がって 捨ててしまうところだが何の疑いもなく泥棒の上前をはねてしまったというわけである。

又、やはり敗戦直後の頃、親子3人外出から帰って玄関を開けた途端、私達は見知らぬ若い男と鉢合わせをした。
 見ると玄関一杯に私達の草履や靴等の履物が散らばっている。どうやらその男は家人の留守をいいことに自分の足に 合う靴を物色していたらしい。
 私達も驚いたが、その男も気が動転したとみえて私達の脇をすり抜けて一目散に逃げ出した。後ろにはその男の履いて いたボロボロの靴が片方だけ残されていた。
 後になって父はしきりに気の毒がって、彼はよほど困っての事だったのだろう、もし彼の足に合う靴があったら、 あげたものをと悔やんでいた。
 車海老泥棒にしても、鮨屋の近所には現金や貴金属が一杯ありそうな大きなお屋敷が何軒もあるのに何故鮨屋に 入ったのだろう。あるいは腹を空かした家族の為に、美味しい魚を食べさせてやりたい一心から盗みに入ったのかも 知れない。
 又、靴泥棒も靴を買うお金もなく、困り果てて、ちょっとした出来心で家に入ったのだと思う「貧すれば鈍する」と 言う諺が妙に心に染みる。
 又「貧の盗みに恋の歌」と言うのもあるがこれは人は貧乏して行き詰ると盗みを働くようになり、恋におちると 相手に胸のうちを伝える歌をつくるようになるという意味で、人は必要に迫られたり苦境に陥ったりすると何でもする ということだ。
 あらゆる物資が不足して誰もが貧しく、生きることに必死だった時代だったからかも知れないが、私は今でも その二人の泥棒に同情こそすれ実害が無かったこともあって、むしろ懐かしさと親しみさえ感じている。
 「泥棒にも三分の道理」という諺もあるし「泥棒せぬは氏神ばかり」というのもあり、人間だったら誰しも多少は 盗み心を持っているものなのだ。

私事だが私の父方の祖母は江の島の岩本院の神官の娘だが、あの有名な「白波五人男」の弁天小僧はその岩本院の稚児 あがりということになっていて、5人の大泥棒の頭領の日本駄右衛門は「盗みはすれど非道はせず」と大見得を切って 義賊の心意気を述べている。
 自分が良い暮らしをしたい為に盗みに入り、家人に顔を見られたといっては簡単に人を殺し、挙句の果てに家に火を つける事等何とも思わぬ現代の泥棒達、衣食住もままならなかった戦中戦後の時代は今思うと古き良き時代だった のかも知れない。
 兼好法師は徒然草の中で、いみじくも「衣食尋常(よのつね) なる上に僻事(ひがごと) せん人をぞ、まことの盗人(ぬすびと) とはいふべき」と衣食が足りているのに悪事を働くような人を、本当の盗人と言うべきだと言っている。
 何回もいろいろな機関に天下りしては仕事もせずにその都度多額の退職金を取る退職金泥棒や、自分達の利益しか 考えないで高額な収入を得ている政治家という税金泥棒、又脱税が発覚してから平気な顔をして税金を納める平成の 脱税王、果ては不動産会社まがいの行為を堂々と行っていて、総て秘書がやった事だとうそぶく政治家達、 これらの(たち) の悪い盗人達こそを厳しく罰すべきなのだが、その様な法律をつくろうという政治家は今の日本には残念ながら一人も いない。
 皆同じ穴の(むじな)と狐だからなのだ。

この記事が雑誌に掲載される頃には選挙も終わって、どこの党が政権を握るか判明していると思う。が、各党首の 揃い踏みの写真を見ていたら、何故か野球賭博問題で雁首を揃えて記者会見をしていた相撲部屋の親方達の顔と 重なって見えたのは、私の僻目なのだろうか。
 どの党が政権をとったにしても、どうか大泥棒の頭領らしく堂々と「盗みはすれど非道はせず」 と大見得を切ってもらいたいものだ。
 いずれ近い将来、世界中の政治家の99%が不用となると世界最大の米国の検索サイト「グーグル」では言っている。 盗みをするのは今のうちだ。
 それは検索エンジンであらゆるブログやメール、携帯の会話から「民意をマーケティング」して、それを基準に 政策や行政を自動装置化するという壮大な計画なのだ。
 その結果、政治家や官僚、法律家は大量にリストラされ、大幅に減量された政府と、マスコミという批判装置と 市民ネットという監視装置の新しい三院制が国家の運営を分担することになるという。私はこの案に諸手を挙げて 大賛成だが、そうなると又悪知恵の働く人間が出てきて、それこそ来世の時代に突入する様な気がしないでもない。
 “世に盗人の種はつきまじ”。
 (6月2日、毎日新闘“異論反論"岡田斗司夫氏参照)

以 上