平成2年5月から書き始めた「馬耳東風」も回を重ねて243回、早いもので20年3ヵ月が経った。
20年といえば、その年に生まれた子供が成人になるだけの年月、それを考えるとよくも続けられ
たものだと思う。
書き始めて1年が過ぎた頃、毎回何か一つのテーマを決めて、それを文章にして公表するということが、
如何に私の人生にとってプラスになっているかということに気が付き、これは何としても続けさせて頂こう
と考えた。
その為にも話しの種を絶やさぬ様にと常に気に入った言葉や酒に酔った時に浮かぶ、「これだ」と思うような
着想を、「スポーツ」、「芸術(彫刻)」、「宗教」、「その他」の4冊のノートに書き留めることにした。
今やそのノートもかなりの冊数になったが暇をみては拾い読み等してみると、又新しい考えが湧いてきて、
80才という年も忘れていろいろな事に挑戦してみようという気が起こり、結構良い退屈凌ぎになっている。
その挑戦の一つが今回の「伯楽会」の結成に繋がった。
「伯
楽会」は馬の絵(油彩・日本画・水彩画等)を描いている作家達の集まりで、少々烏滸がましいましいが
伯楽とは中国古代の馬を鑑定することの巧みな人の事で、伯楽の名が剥落しないように皆で切瑳琢磨しようという
意味で私が付けた会の名前である。
その様な馬の絵を描く人達の集りをつくりたいとかなり以前から考えていたのだが、たまたま私の馬の像を
整理して空いた馬事公苑のホース・ギャラリーで、その人達のグループ展を開けないものかと考え馬事公苑に
相談してみた。
幸いな事に、それなら5月3日~5日のゴールデンウイークに馬事公苑で毎年開催するホースショーの際に、
そのグループ展を開催してもいいということになった。
唯、折角なら日本中央競馬会で印刷するホースショーの宣伝の為のポスターや雑誌にも伯楽会の記事を掲載したい
ので1週間でその企画内容を連絡して頂きたいとの事だった。
願ってもない事なので早速私の知っている馬の絵を描く人達数人に話しをした処、全員が無条件で賛成し、
僅か4日で伯楽会の結成となり会員8名、会則や馬事公苑での各自の出品内容迄決定することが出来た。
その結果、ホースショーの為のプログラムやポスターにも伯楽会の紹介文が入り日本中央競馬会の雑誌やテレビに
も宣伝して頂くことが出来た。
勿論、私も美術雑誌や新聞に伯楽会の宣伝記事を掲載して頂いた。
幸いな事にホースショーは3日とも快晴で八重桜も満開となり、馬事公苑の3日間の入苑者数は約6万人、
伯楽会の入場者数も6,500人という大成功となった。
当然出品者も大喜び、馬事公苑にも大いに満足して頂き、次回からもいろいろなイベントに合わせて伯楽会を
やらせて頂く事となった。
生命も愛も出会いも総て偶然、その偶然を一期一会として総て己れが生きる道程のクサビとして深々と刻して
ゆく、この伯楽会の誕生も運命でもなく必然でもなく偶然。
偶然と思い定めて生きるところに驚きがあり新たな発見があり総てが新鮮さをもって立ちあがってくる。
人生の幸福は常に将来に目標をもち、目を輝かせて生きることだとつくづく実感した。
伯楽会展の展示場の前の芝馬場(1964年の東京オリンピック会場)では3日間にわたり日本では名の通った
一流の選手による障碍飛越競技が行なわれていた。
馬の体の線は下手な騎手に3ヵ月も乗られると見る影も無く惨めな姿に変わり果てるが、優れた乗り手が騎乗して
鍛えあげた美しい馬体は勿論、無駄な賛肉を削ぎ落とし美しく逞しい筋肉をフルに使って大障碍を飛越する姿は、
見る者を酔わせ、魅了せずにはおかない。
その馬の肉体の美しさを感じない人が馬の絵を描いても本当に美しいものは出来ず、作者が興味をもたずに
出来た作品は見る人を感動させることはない。唯、一心に描いたとしても悲しいかな所詮芸術の世界に生きる人間に
は虚空遍歴しかなく、その人達が安心して住める世界はどこにも存在しない。
何故ならば芸術の世界には完成が無いからだ。
然し、この伯楽会展に出品した作家達が、お互いに啓発しあい、本物の馬の姿を目の当たりにして、次は
こういう絵を描きたいという強い願望と同時に何らかの新しい境地を開いたことは確かである。
そして私もまた、8人の描いた33点の絵を3日間じっくりと見させて頂き、私も馬の絵を描いてみたいという
欲望に駆られ鉛筆で数枚描いてみた。
その絵を早速私の親しい画廊の主人に見せたところ意外にも
「玄人裸足」との評を得、個展
を開いてはどうかと言われ、私の傘寿からの挑戦が又一つ増えたと密かにほくそ笑んでいる。
肉体労働の彫刻と違い、絵なら腰部脊柱管狭窄症の私でも座ったままで描けるから、まだ数年はもつに違いない。
勿論、馬の彫刻は肉体の続く限り続けるつもりでいる。
ボケーション(召命・天職)は他人から教えられるものではない、自分で見つけるものだと思う、
その時、苦労は喜びや楽しみに変わる。
「哲
学することが死に方を学ぶことだとすれば、描くこと、彫ることは愛し方、生き方を学ぶ
ことに他ならない」。