「な
すことの一つ一つが楽しくて命がけなり 遊ぶ子供ら」(楢崎通元老師)
遊ぶという行為は、4〜5才の子供にとって人間を形成する上で最良の手段であると思う。
何故ならば遊ぶという行為は、子供達個人個人がそれぞれ自已の内部に持っているものを自由に外部に向って表現し発散させるもの
で、それは子供にとって純粋な精神的・肉体的な表現そのものだからだ。
従って、遊ぶということはそれ自体喜びであり、自由であり、満足であり、そして平静でさえあるのだ。
又更にその行為は傍から見ていても何とも微笑ましく、見る人達にまで喜びと心の安らぎを与えてくれる。
子供の遊び疲れて眠る姿は正に平和そのものであり、子供の最も美しい表現だとさえ思えてくる。
遊ぶという行為は、子供自身の心像や興味を満足させようと、その全能力をふりしぼって真剣に、まさに命がけで自由な運動、
自由な活動を示すものであり、その行為自体は無目的で誰に要求されたものでも又強制されたものでもない。
それは自己満足以外の何物でもないような気がする。
私は、スポーツも又この子供の遊びと同様、優越感を伴わない自己満足の世界だと思う。
そもそもスポーツの語源はラテン語のディスポート「運び去る」という意味で、つまり総てを忘れて熱中するということで、
仕事を離れて遊びたわむれることにこの語が用いられていたと学研の現代新百科事典に載っている。
従ってスポーツは飽くまで純粋なスポーツとして楽しむべきものであって、お互いにその技を競ったり勝ち負けをつけようと
努力する等ということは、まったくの邪道と言わざるを得ない。
然るに、悲しいかな近代オリンピックに於いては歪められた国家意識と無理やりに結び付けて誤った国家観念の昂揚の手段として
利用され、ラジオやテレビ等ではアナウンサーが吠え、聴衆はわめき、国家の存亡をその勝敗に賭したかのような醜態を演じるのは、
結局我が国民のもつ劣等意識によるものであって、事物の重要性を正しく識別する力を欠いている何よりの証拠であると嘗て慶應
義塾大学の池田潔教授はその著「自由と規律」の中で述べているこの言葉は、60数年を経た今日、益々その光を増している。
スポーツマンにとつてスポーツは真剣であり、神聖でさえあるのだ。
その真剣さを妨げるような応援や不謹慎なマスコミによる選手達の闘争心を無理やりに煽るが如き間違った報道は、聖きものに
対する冒涜であり、スポーツマンの純粋な精神を惑わす悪魔の行為である。
一般大衆は、スポーツそのものを客観的に鑑賞し、敵味方の別なく拍手によってのみその評価を表現すべきなのだ。
今この原稿を書いている時、テレビでは四六時中どこかのチャンネルでバンクーバーオリンピックの映像が流れ、フィギュアスケート
の日韓の女性選手の誰が勝つかという話題の出ない日はない。
近代オリンピツクの創始者クーベルタン男爵の理想は、「オリンピックに於いて大切な考えは勝つことではなく参加することであり、
人生に於いて最も重要なことは相手を征服することではなくて正しく奮闘することである」という言葉は完全に忘れ去られている。
彼の思想はまさしく古代オリンピックの初期の美しい競技精神であったに違いない。
即ち勝ちたいという意志を一段と高く昇華させて相手を征服することではなく正しく奮闘することであるとした男爵の心意気を
良しとすべきである。
従って勝って驕らず、負けて悪びれず、相手を重んじ苟も不当の事情によって得た有利な立場によって勝敗を争うことを潔し
としないスポーツマンシップこそスポーツをする上で最も重要なことであり、その精神を抜きにしてはスポーツはありえない。
そのスポ、ツの世界に無理やりに勝ち負けをつけさせようとして考え出されたのが審査基準という魔物である。
陸上や水泳のように高さや速さを競う競技は、スポーツ用具の不平等はあるものの比較的に優劣の判定はつけ易い。
然し、そこに美しさ、優雅さを必要とする真のスポーツの持つ芸術性を判定するとなると私の経験からしても個々の審判員の
芸術に対する感性の問題と、自国や自分と関係のある選手に勝たせたいという思いが働き、ややもすると公平さを欠く事となる。
審査規定、それはあくまで人間の定めたものであり規定をどの様に定めても不明朗・不公平さを払拭することは出来ない。
一例を挙げると、フィギュアスケートで8年前のソルトレークシティオリンピックでの採点を巡る審判の疑惑が噴出し、その結果
採点方法が大幅に改正され、演技の要素とプログラム構成についての項目が数値で示されることになり、採点競技につきものの
不明朗感が若干改善された如くに思えたが然し今回のオリンピックのフィギュアの採点について朝鮮日報(韓国)の成鎮赫記者は
金研児は
点数が高すぎたと採点方法を見直すべきだといっている。
超一流選手の演技は正に一流の芸術である。
一流の芸術に甲乙をつけること事体に無理があると同時にそれは選手に対する冒涜でもある。
然るに一流の選手達をメダルという餌を種に無報酬で出演させ、何十万という観客に高額の入場料を払わせ、放映権を盾に
テレビフイルムを販売して開催する近代オリンピックは正に金儲けのスポーツ大会以外の何物でもない。
古代オリンピック競技の優勝者はギリシヤの理想を体現するものとして、神域にはえるオリーブの小枝で作った冠が与えられ、
神域に胸像を建てることが許されたが、他に褒賞は受けなかった。
これが古代オリンピックが競技の清浄さを求め、のちのアマチュア精神につながるもととなったのだ。
然し、優勝者には郷土の英雄として大きな特典が与えられ、これが買収、八百長などの腐敗を招き、前4〜5世紀頃から
祭典はしだいに見せ物に堕落していった。
更に、ギリシヤが異教国ローマの支配下に入るにおよび、民族的な行事としての精神は失われてゆき、キリスト教がローマ国教に
なるとともに、393年を最後にテオドシウスー世の勅令によってオリンピックは廃止された。
(学研・原色現代新百科事典)
クーベルタン男爵の、「もしも再びこの世に生まれたら、私は自分の作ってきたものを全部壊してしまうだろう」という無念の
最後の言葉をまつまでもなく、近代オリンピックの終焉は近い。
近年とみにオリンピック上位入賞者のプロとしての独立が進み、それら選手の個人スポンサー収入は大きく、国としての意識は
薄れオリンピックは近い将来、国の代表から個人の見本市となるだろう。
然し、それは個人個人の問題で私には何の関係もないが、これからのオリンピックは私が今迄述べたように勝敗にこだわらない
真のスポーツの祭典、全世界平和の為の祭典として生まれ変わることを切望するのみである。
以 上
参考 岡部平太著「スポーツと禅の話」