学問のすすめ
(2010年3月号)

去年の暮の大河ドラマで司馬遼太郎の「坂の上の雲」がやっと始まった。
 これは原作も筋道が通っている上、騎兵の場面は財団法人・馬事文化財団屈指の博学者末崎理事の監修とあって2年程前から窃かに 期待していた。
 その最初の場面で秋山好古(よしふる)が最も尊敬する人物 の本だと云って福沢諭吉の「学問のすすめ」を弟の真之に「これを読め」と云う所があった。
 たしか、家にも「学問のすすめ」の初版本(復刻本)があったのを思い出し慶應義塾の3代目として再度読みなおしてみようと思い、 さんざん探してやっと見つけたその本は縦18糎・横12糎・厚さ2粍(24頁)の薄い本で、自分でもよく探す事が 出来たものだと感心している。
 「変体がな」で書かれたその本は、いささか取っ付きにくいが言わんとしていることはよくわかる。

この本は元来福澤諭吉の故郷、中津に学校を開くについて学問の趣意を記して旧く交わっている同郷の朋友に示そうと思い 一冊の本にしたところ、或る人がこれを読んで、これは中津の人達だけに配布するより広く世間に布告するべきだと 勧められ慶應義塾の活字版でこれを摺って同志の人達に読んでもらうことにしたと最後の頁に書いてあった。
 ところが、この「学問のすすめ」は福澤諭吉の専売特許だと思っていたら、何と福澤諭吉・小幡篤次郎同著となっているではないか。
 一体、小幡篤次郎とは何者なのか、いくら調べてみてもわからない。
 そこで慶應の馬術部の先輩で「福澤諭吉先生と馬術」という本を書いた松井隆直氏に聞いたところ早速調べて、慶應義塾創立100周年記念 「福翁自伝」から書き写してお知らせします、と丁寧なお手紙を頂いた。
 それによれば「福翁自伝」「暗殺の心配」の章の中に「元治元年私が中津に行って小幡篤次郎兄弟をはじめ同藩子弟78名(7〜8名と思われる) に洋学修業を勧めて、ともに出府するときに……」と篤次郎の名前が出てきて、そのあとの人名注の処に「小幡篤次郎は中津藩、 元馬廻り格200石の上士篤蔵の二男、藩校進修館の塾長をしていたが、元治元年福澤に伴われて江戸に出で、幕末に開成所、英学助教 になった。終始福澤を助けて慶應義塾のことに尽力し、福澤に次ぐ塾中の長者と仰がれた。東京学士会院会員、貴族院議員(天保13年 1842年〜明治38年1905)。とあった。
 要するに彼は福澤諭吉の弟子で彼の右腕として働いた人で初版本以降2版からは福澤諭吉著となっていて彼の名前は出てこない。

ところで、その「学問のすすめ」は御存知の通り、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、 万人は万人皆同じ位にして生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きを以て、天地の間にあるよろずの物を資り、 以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨げをなさずして、各安楽に此の世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広く此の人間世界を 見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様 雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。云々……」(原文のまま)とあり、その相違は本当の学問をすることだと言うことを 綿綿と述べている。
 現代の我々にとっては福澤諭吉に言われるまでもなく充分に承知の事で唯それを実行に移すことが出来ずにいるだけなのだが、 徳川時代から明治になったばかりの人達にしてみれば「目から鱗」であったのであろう。
 「学如不及 猶恐失之」
 学は及ばざるが如くして、猶お之を失わんことを恐れる。
 学問をするには追っても追っても追いつくことが出来ないものに追いつこうとするように絶えず休みなく努めて、猶お之を見失って 追いつくことが出来なくなるのではないかと、恐れるような気持で勉強しなければならない。
 これは論語の一節で、学問に対する厳しくそして遠大な心構えを示したものである。

ところで福澤諭吉は明治3年37才の時に腸チフスを患い病後の運動には乗馬がよろしいと医師や朋友に勧められ、その年の冬から健康の為 に洋式馬術(現在のものに近い馬術)を始め15年間も続けたというから緒構乗れたのだろうと思う。
 東京三田の慶應義塾の敷地の中に馬場や厩舎を造り常に複数の馬を飼っていたという。
 「学問のすすめ」の中にも、平民へ苗字乗馬を許せしが如きは開国以来の一美事士農工商四民の位を一様にするの基ここに足りたり、 と書いている。
 福澤諭吉が乗馬服を着て楓爽と馬に乗っている姿を想像すると何となく微笑ましい気がする。
 今から20年以上も前、荏原製作所の社長が北海道の牧場でオーストラリア産の白馬(リピッツァナー種、主にスペイン乗馬学校で 騎乗の白馬)の生産をしていたことがあり、そのお手伝いをしていた時、私の後輩で福澤諭吉の親戚の女性が、どうしても日本に 数頭しかいないリピッツァナーを飼いたいと言ってきたので世話をしたところ、事もあろうに、その馬の名前を「ユキチ」とし馬術 連盟に登録し毎日乗馬を楽しんでいた。
 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言った諭吉も平成の御代となってはずぶの素人の御夫人に乗られて悪戦苦闘している 姿を見るに見かねて「ユキチ」という名前だけはやめろと言ったが聞き入れず、千葉県の方で乗っていたが、その後の消息は わからなくなった。

もう少し上手な乗り手に世話していたら、その馬も競技会に出場して充分入賞するだけの素質をもった馬だったのにと今でも 悔いが残る。
 円高・デフレで一万円札の価値も若干あがったものの、こうなっては諭吉もまったく、形無しである。

以上






 

福沢諭吉の乗馬服姿の写真。
明治7年、41歳の時撮影。
(慶應義塾福沢諭吉研究センター所蔵)