スポーツとドーピング
(2010年2月号)

最近、(トミ)にオリンピックに限らず一般のスポーツに於いて 勝利至上主義の思想が顕著になり、勝つ為には手段を選ばずという選手が増加しているように思う。
 その結果、スポーツマンの心の中にフェアープレーとスポーツマンシップの精神の影が薄れ、マスコミもまたフェアープレーと スポーツマンシップの精神を評価することをやめ、それを記事に掲載することは無くなった。
 それらの事実を踏まえて、心無いスポーツ関係者や選手達の間に「見つからなければ何をやってもいい」という思いが延り、 当然の事としてドーピングが大きく浮かび上がってきた。

ドーピングについては以前からIOCも否認しており、その理由として実際に薬を使用して死んだ選手もいる事から、健康を維持し 増進する為のスポーツにあってドーピングは間違いなく健康を害するものであるということである。
 もう一つの理由として、これはIOCのドーピングの受け取り方としては納得いかないが、お金のある選手は筋肉増強剤のような 高価な薬を購入出来るが、貧しい発展途上国の選手達は高額な薬を購入することが出来ず不公平だというものである。
 然し、現実にはスポーツの商業主義化の中、名誉や生活と引き替えにドーピングに走らざるを得ない貧しく悲しい選手達のいることは 事実であり、殊に国と国との戦いの場と化したオリンピックでは近い将来「遺伝子操作による人体改造」による「遺伝子ドーピング」が 登場するだろうということを私は5年前にこの「馬耳東風」で書いている。

果てせるかな、国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長は去年の暮、世界反ドーピング機関(WADA)が創立10周年を記念してストッ クフォルムで開催した評議委員会の席上、「遺伝子ドーピングが次の闘いの場となる」と警鐘を鳴らすと同時に、同会長は新種の 違反薬物が次々と開発されている経緯を憂慮し、WADAはこの成り行きを十分に認識してほしいと警戒を促した。
 「遺伝子ドーピング」とまではいかないまでも、私は十数年前から、次のオリンピック開催国が、どの様なドーピング検査の為の試薬を 用意しているかを探り出し、その試薬に反応しない新しい筋肉増強剤を開発することが次のメダルに繋がるということを聞いている。 正に勝つ為には手段を選ばずである。

更に、パラリンピックに於いては義足の進歩がめざましく、これ等も「用具によるドーピング」ということが出来る。
 弾力性に富むカーボン繊維を使用した板バネ状の義足は100万円以上の高価なものというが、弾力性のあるカーボン繊維製の義足が 生む反発力を上手に前に進む力に変えれば一般の義足を使って走る選手よりはるかに早く走ることが出来るのは明らかである。
 又、記憶に新しいところでは、五輪やその選考レースで次々と世界記録を続発させた英国のスピード社製の新型水着「レーザー・レーサー」 も従来の2〜3倍の価格だという。
 高価な用具や筋肉増強剤によって獲得したメダルにどれ程の価値があるのか、それによって得たメダルを誇らしげにかざす選手達、 それを称えるマスコミ達の猛省を促したい。
 この様に用具の優劣による結果の差も又「器具によるドーピング」と言わざるを得ない。
 通常の筋肉増強剤の如く、発展途上国では最先端の競技用義足は年収の何年分にも相当するという。スポーツに於いて用具による 平等性が保たれぬのなら、IOCはそれらの用具も筋肉増強剤同様禁止する必要があると思うのだが大国の圧力や強力なスポンサーの圧力が 勝負の世界に大きくのしかかり、IOCは「五輪の原点」から遠ざかるばかりだ。

用具問題以外にも例えば長野のあとジャンプのルールを変更し板の長さを規制したり、「柔能く剛を制す」の柔道にしても細かい規制を 設けて元来の「一本」だけの柔道をつまらぬ格闘技に変え、日本のお家芸の剣道さえ聞くところによると日本人に不利なようにルールを 変えられたと聞く。
 その結果、JOCでも各競技団体の中で、日本の協会から国際的な組織にどんどん役員を送り出して政治力を発揮してもらわないと 役員の少ない競技団体は競技力も落ちてしまい競技力向上を願うにも選手を育てる以外に国際的な役員を送り出す必要があると 真剣に考えている。何か本末転倒の感がある。
 北京五輪の開会式に合わせてグルジアからの分離独立を求めて南オセチア自治州でグルジア軍とロシア軍の軍事衝突が起った際、 その開戦の翌日、IOCは記者会見で開会式の日の軍事衝突は五輪精神に反するとしながらも、五輪停戦は国連や各国が実現すべきだと IOCの責任を回避した。
 何故IOCは軍事行動の当事国に強く抗議しなかったのか、その戦闘行為に抗議一つ出来ないIOCは最早、五輸は「平和の祭典」ではなく 単なる「金儲けのスポーツ大会」以外の何物でもなく、その主催機関のIOCにスポーツマンシップやフェアープレーの精神を要求するのは ナンセンスなのだ。

第一次世界大戦後、母国フランスの冷遇に絶えきれずスイスに移住した近代五輪の創始者クーベルタン男爵の言葉は正に至言と言わざるを 得ない。
 曰く「もしも再びこの世に生まれたら、私は自分の作ってきたものを全部壊してしまうだろう」

(鈴木良徳著「続オリンピック外史」)
以 上