吾輩は馬である
(2009年12月号)

 「吾 輩は馬である名前はまだない」と書き出したいところだが、私と馬との付き合いは非常に長く、かれこれ70年にもなり、 その間に関係した馬は16頭、じっと目をつぶると今でもその一頭一頭の面影が目に浮かぶと同時に乗り味までもが彷彿 として蘇って来る。
 従ってそのうちの一頭だけに的を絞って書くことは到底不可能なことなので、今回は懐かしいかつての馬達の気持ちになって 書いてみようと思う。

昭和14年から乗り始めた馬は戦争中も学徒出陣によって戦場に駆り出された大学生にかわって大学馬術部の馬の世話をしていたから 私のこれ迄の人生の中で馬と話しをしていた時間の方が恐らく人間と話しをしていた時間より長く、その分私は人間より 馬に近いような気がする。
 その証拠に何十年間も春になると毎年きまって馬糧の入っていた大きな麻袋一杯に青草を刈っていた多摩川の堤で、 芽を出したばかりの若々しくおいしそうな青草を目にすると、今でも自然と口の中に唾液が湧いてくる。
 又、皆様には信じられないと思うけれど、つい先日私は大変に不思議な夢を見た。

その夢とは女房から家の近くに老人ホームが出来たというから参考の為に見てきたらと云われ多摩川の河川敷に建った老人ホームを 見に出かけた。と、そこまでは正常だったのだが、何十年間も毎日の様に通いつめた懐かしい乗馬クラブの跡地に建っている 平屋建の白い壁の老人ホームの玄関を入ると広いホールがあって、そこから左右に分かれた廊下の両側に私達の入る個室のドアが 見える。
 そのドアを開けると、そこはまぎれもない馬房(馬の個室)なのだが何の不思議に思うこともなく、まずその清潔さや充分な広さに 感心し、更に各馬房毎に設置された冷房や床と周囲に貼られた厚いゴムの感触を確かめ、次に馬糧庫に貯蔵されている良質な乾草や 栄養価の高い輸入の濃厚飼料(燕麦(エンバク) やフスマ等)を手に取ってみて満足する始末。
 又、いろいろと説明してくれる事務員(厩務員(キュウムイン)) の丁寧な態度と馬取扱上の知識の豊富さに一安心、最後に馬糞の処理施設はどうなっているのかと厩舎の裏手に回ったところで 目が覚めた。
 我ながら、ここまでくれば馬鹿も突き当たりだと思いながら、それでも自然と笑いがこみあげてきて思い出しては一人で ニヤニヤしていた。

毎年5〜6才で競馬を引退するサラブレッドの老後は非常に長く厳しい。
 ずば抜けて優秀な成績を残した馬は種牡馬(シュボバ) や繁殖牝馬(仔を産む為の牝馬)となって管理の行き届いた牧場で暮らせるが、大半の馬達には悲惨な運命が待っている。
 何故なら、5〜6才で引退した馬達を牧場でのんびりと過ごさせるととが出来ればこの先まだ20年近く生きることになり、 その間の馬糧代や馬管理人の経費は莫迦にならず、一銭の利益も生まない馬の為に20年近くも金を出す人はまずいないからだ。
 それでも全国の乗馬クラブや大学の馬術部にもらわれてゆく馬達は、毎日過酷な重労働に耐えながらも一応食と住が保障されて、 引退後何年かは生き長らえることが出来る。
 以前、信州のある村の村長さんが、村の草原を引退後の馬の放牧場にして馬の老馬ホームを造り、かつての馬主さん達の家族や 一般の婦女子達が馬と触れ合い乗馬を楽しむ施設を創って「村おこし」にしたいと私の所に相談に来られたことがあった。
 私もその趣旨に賛同して、いろいろな機関を紹介してさしあげたが結局実現しなかった。

それでは選ばれた種牡馬はどうだろう、よく「種馬が羨ましい、おれも一度種馬になってみたい」等という不心得者がいるけれど、 その相手はいつも若くて美しい自分好みの牝馬ばかりとは限らない、時にはロダンの「美しかりしオーミエール」の様な御婦人とも 否応無しに付き合わねばならず、毎年シーズンが終る頃には十何瓩も瘠せてしまうのが実情だ。
 又、繁殖牝馬も毎年いろいろな牡馬と付き合わされて、いやな男の子供も生まねばならず、御腹のあいている時はなく、 その結果若くして凹背(オーハイ) (背中がへこむこと)となって反対に腹は大きく垂れ下がり、見る影もなく老いさらばえてしまう。
 当然私等は優秀な種の持ち合わせ等無いから種馬にはなれず、早々と此の世を去る運命が待っている。
 然し、今の私がサラブレッドかヨーロッパの乗馬用の馬に生まれかわれるとしたら、スピードが総ての競走馬や飛越能力を必要とする 大障碍馬にはなれないが、完全に調教された馬場馬術(定められた歩様でいろいろな演技をする競技)の馬として美しい女性の騎手を 乗せて自分の思い通りに完壁な演技を披露して世界選手権で優勝する自信はある。
 然し、現実には人間を乗せて走る馬達は自分から望んで人を乗せているわけではなく、馬にとって人間は、いかなる名騎手といえども お荷物であることにかわりはなく、まったく迷惑な話しなのだ。

最後に私が20年近く書いている「馬耳東風」にしても、その出典は唐の詩人、李白の詩によるもので、一般には他人の意見や批評などを 全く心にとめないで聞き流すこととされている。
 然し、本来は厩戸皇子(ウマヤドノオウジ) (聖徳太子)が言われた「馬の耳に風」から出たもので、桜の花がほころび始め春風が心地よく頬をなでる気持のいい春の一日、 皇子は自慢の愛馬「黒駒」にまたがって、のんびりと春の野辺を散策していた時の事、ふと気がつくと黒駒は心地よい春に耽るどころか、 御主人様にもしものことがあってはと油断なく周囲に気を配りつつ歩を進めていたのに気がついて、そのことを「馬の耳に風」という格言 にしたのだ。
 ところが、その格言が遣隋使か遣唐使によって大陸に伝わり李白がその本来の意味を取り違え、それが又日本に逆輸入されて馬にとって 甚だ不名誉な格言になってしまったのだ。

それにしても70年間の長きにわたり、馬を痛めつけてきた私のせめてもの罪滅ぼしとして、これからも馬の真の美しさを少しでも多くの 人達に知って頂こうと、馬にとっての最も美しい姿、即ち牧場で遊び戯れている馬の姿、楽土に遊ぶ馬の姿をこれからの一生のテーマとして 創り続けようと思う。
 

以 上