「人
は何の為に生まれてきたのか」。
家族崩壊が叫ばれている今日、親が子供を平気で殺し、子供も親を殺したりと信じられないような事件が日常茶飯事に行われている。
未だに世界同時不況から脱しきれずにいる日本の将来に希望を失い、虚脱感に満ちた小賢しい若者達は、「自分は頼みもしないのに
この世に生まれてきたのだから親が子供の面倒をみるのは当り前」と昂然とうそぶく。
そこには「親孝行」等という考えは微塵もない。
古い男と言われそうだが、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ、朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発
シ徳器ヲ成就シ……」という明治20年発布の「教育勅語」の中の一文を、昭和一桁生まれの私達は小学校で事有る度に白文で繰り返して
素読させられ、又耳に胼胝
が出来る程聞かされたものだ。
その結果、親孝行は極当然の事として理屈抜きでするものと思い込んでいた。
然し、今日では先の子供達の発言に対し「何故親に孝行をつくさなければいけないのか」という事をはっきりと教えることの出来る
親や教育者は最早この国にはいない様に思える。
何故ならば、その答えを現代の親や教育者達はかつて誰からも教えられた事がないからだ。
然し私達は、末期的症状を帯びている今日、もう一度「孝」が道徳の根本であり、人生の原理であるということを恩い起こすと同時に、
その理想が中心となっている中国戦国時代末に書かれた「孝経」の中の有名な言葉を思い出してみよう。
「身
・体・髪・膚、之を父母に受く、敢えて致傷せざるは孝の始なり。
身を立て道を行い、名を後世に掲げ、以て父母を顕
すは孝の終りなり」。
これは己の体は祖先からずっと受け継がれてきたものであって、そういう大事な体だからこそ傷つけてはいけない、そして更に大事な事は、
生命を次の世代に引き継いでいかねばならない」という事なのだ。
従ってこの文章は生命の連続・儒教の死生観という永遠の真理をも見事に表現した一文でもあるといえる。
中国人は儒教の根本に「孝」というものをおき、死の不安や恐怖を乗り越えようとした、そして朝鮮民族や日午人も又これと同じ死生観を
もっていたと思われるところから、この儒教の思想が中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった時、日本人は何の抵抗もなくその教えを
受け入れことが出来たのだ。
然し、残念なことにこの文は一般的には耳にピアスの穴をあけたり、身体に刺青をしたりして身体に傷をつけてはいけない、
そして健康に注意して元気に成人することが親孝行というものなのだ、という意味だけに捉えられている。
だから子供達に何故耳たぶに穴をあけるのが親不孝なのかと聞き返されると忽ち返答に窮してしまうことになる。
それでは先にあげた「孝経」について、もう少し考えてみよう。
「孝経」の一番最後に「喪親章
」という親を弔うことについて書かれた章があることからみて、父母を顕わした後、親を弔うことを一番最後に置いて、
それをもって孝の結びとしている。
又儒教では精神と肉体の両方の存在を認めているが、精神の安定は祖先を崇拝することによって得られるとされている。
即ち、「孝経」が各章で共通して説いているのは祖先を祀ることであり、祖先祭祀こそが孝の根本とされている。
「孝経」に限らず儒教の教典の中には自分の身体は親の遺体であるという見方もあり、生命というものは親から子へ、子から孫へと
続いてゆくものだ。
即ち、祖先崇拝をきちんと行い、親は子供に愛情の限りをつくし、子供はその愛に報いる為に親に孝養をつくし、そして子孫一族が繁栄し
続けることが「孝経」が最終的に望んでいるところなのだと思う。
「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」(吉田松陰)。
儒教文化圏では死生観の根底にある「孝」の思想の上に家族倫理、一族の倫理、社会の倫理が確立されている。
それは「孝」が宗教性をもって死生観と繋がっているからなのだが、その事を残念な事に学校でも家庭でもあまり教えてはいない。
しかも、「孝」というと何か封建的な道徳、時代遅れの道徳と受け止めている人が多い。
その上日本では何故か昔から「孝」を否定したり、親の方が分が悪い諺が多い。
親が死んでも子は食休み
親子は一世夫婦は二世
親の恩より師匠の恩
親の恩より義理の恩
親の甘茶が毒となる
親苦労するその子楽する孫乞食する
親の心子知らず
そうかと思うと
親の意見と茄子の花は千に一つも無駄がない
親の意見と冷酒は後で効く
孝行のしたい時には親はなし、さりとて石に布団は着せられず
子を持って知る親の恩
等と後で親を持ち上げた句もある。
又、「孝経で親の頭を打つ」等という不届きな諺もある。それは親に対する孝行の大切さを説いた経書で親の頭を殴りつけることから、
平素口に出して言っていることと行動が喰い違っていることの諺で、私なども多分にそのきらいがある。
最後に「人は何の為に生まれてきたのか」、この文の初めに書いた質問に対する私の答えは「人間は進化と向上を現実化するために
此の世に生まれてきた、生きている限り己の万能性を最大限に発揮するため自己
陶冶をすること」だと思っている。
そして、その結果「名を後世に掲げ、以て父母を顕す」ことになればこれにこしたことはない。
「うたた寝や 叱り手のない寒さかな」。
誰の句か知らないが、この句と同じ境涯になって久しいが、これからも己の可能性を最大限に発揮できるよう努力しようと思う。
以上